【ロシア・アヴァンギャル ド特集 第7弾:ロシア文壇の戦国時代:アヴァンギャルド文芸誌の広告欄を読む】

*久々のシリーズ【ロシア・アヴァンギャルド特集】のポストになりますが、今回は、本誌の寄稿者の一人が、このブログへ寄せてくれた記事「ロシア文壇の戦国時代:アヴァンギャルド文芸誌の広告欄を読む」をお届けします!(編集部より)
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ロシア文学というと真っ先に思い浮かぶのは、ドストエフスキイ、トルストイ、チェーホフといった19世紀の作家達だろう。それは日本の読者だけでなく、ロシア人でも同じことだ。だが、ロシアの文壇が見どころに溢れているのは、19世紀に限った話ではない。

1920年代後半といえば、レーニンが死去し、スターリンが権力を確実なものにしていった時代。ネップ(新経済政策)と、それに取って代わる第一次五か年計画の時代だ。そしてその頃、し烈な権力闘争が繰り広げられていたのは、政局だけではない。文学の場でもまた、部分的に政局と連動する形で、文壇の主導権を巡るグループ抗争が繰り広げられていた。その三大勢力が、プロレタリア作家のラップ、同伴者作家に門戸を開いた「峠」派、そしてアヴァンギャルドのレフである。三グループはそれぞれの文芸誌を発行し、自らの芸術論とそれに適う作品を発表するとともに、断固とした調子で他グループの批判を行っていた。主な雑誌として、ラップの『文学の哨所にて』、「峠」派の『赤い処女地』、レフの『新レフ』(1925年に廃刊になった『レフ』の後継)がある。この記事では、『新レフ』創刊号(1927年1月)の広告欄に注目したい。そこには抗争の在り方の一端が垣間見えることだろう。

『新レフ』はアヴァンギャルドが1927-1928年の二年間にわたって月刊で発行していた文芸誌だ。当初の責任編集者は詩人のマヤコフスキイ(1928年に脱退し、劇作家のトレチヤコフに交代)。その他、主な参加者には、フォルマリストのブリークやシクロフスキイ、芸術家のロトチェンコやステパーノヴァ、詩人のアセーエフやパステルナーク、映画監督のヴェルトフやエイゼンシュテインらがいた。

『新レフ』の広告は基本的に表表紙、裏表紙の内側に一点ずつ掲載されている。誌面に広告はない。創刊号の表表紙内側には雑誌『赤い処女地』、裏表紙内側には雑誌『文学の哨所にて』の広告が載っている。

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図版①『新レフ』1927年1号表表紙内側に掲載の、『赤い処女地』広告

(以下に訳を掲載)

国立図書出版所 モスクワ

雑誌『赤い処女地』1927年の定期購読受付始まる

月刊 文学・芸術、学術・評論誌

編集 A. ヴォロンスキイ、V. ソーリン、Em. ヤロスラフスキイ

1927年『赤い処女地』にて掲載予定:

I. バーベリ「短編」、I. ヴォリノフ『邂逅』、M. ゴーリキイ「新作の一部」、Vs. イヴァノフ「コサック(長編)」、L. レオーノフ「ミーチャの帰還」、A. トルストイ「パホム補祭長」、その他。

中・長編小説

カラヴァエヴァ、ザヴァツキイ、リージン、P. ロマノフ、シュトルム、その他。

評論:L. アクセリロド、ブロンシュテイン、L. ヴォイトロフスキイ、N. オシンスキイ、ラデク、ロストフ、コスヴェン、その他。

付録

年間購読者には

M. ゴーリキイ『アルタモノフ家の事情』2ルーブル25コペイカ、A.N. トルストイ『作品集全7巻』4ルーブル、C.A. エセーニン(エヴドキモフ編)『思い出』2ルーブル。

計8ルーブル25コペイカのところを、5ルーブルにて。

購読料

付録つき:23ルーブル

付録なし:1年-18ルーブル、6か月-10ルーブル、3か月-5ルーブル

年間購読者の分割払い

付録つき:申込時に13ルーブル、6月1日までに10ルーブル

付録なし:申込時に11ルーブル、6月1日までに7ルーブル

購読申込は:国立図書出版所 営業局 予約・定期購読出版物部まで<以下略>

 

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図版②『新レフ』1927年1号表表紙内側に掲載の、『文学の哨所にて』広告。

(以下に訳を掲載)

国立図書出版所 モスクワ

雑誌『文学の哨所にて』1927年の定期購読受付始まる

毎月二号

編集 L. アヴェルバフ、B. ヴォーリン、Yu. リベジンスキイ、M. オリニコフ、F. ラスコーリニコフ。

付録

年間購読者には

メリング『レッシングの伝説』2ルーブル、フリーチェ『芸術の社会学』2ルーブル、プレハーノフ『ロシア社会思想史全3巻』第Ⅰ巻2ルーブル、第Ⅱ巻1ルーブル、第Ⅲ巻1ルーブル50コペイカ。

計9ルーブルのところを年間購読者には5ルーブルにて。

購読料

付録つき15ルーブル

付録なし:一年間-10ルーブル、6か月5ルーブル50コペイカ、3か月3ルーブル

年間購読者の分割払い:

付録つき:申込時に8ルーブル50コペイカ、6月1日までに6ルーブル50コペイカ

付録なし:申込時に6ルーブル、6月1日までに4ルーブル

各号-50コペイカ

購読申込は:国立図書出版所 営業局 予約・定期購読出版物部まで<以下略>

 

『赤い処女地』、『文学の哨所にて』の広告はともに、1927年の定期購読申込受付が開始され、有料の付録もつくという内容だ。『赤い処女地』の編集には、「峠」派の指導者ヴォロンスキイの名前があるほか、執筆者にはバーベリやゴーリキイといった顔ぶれが見受けられる。『文学の哨所にて』の編集には、ラップで主導的位置にいたアヴェルバフやリベジンスキイが挙がっている。

だがここで最も意外なのは、二誌の広告が『新レフ』に掲載されていることだろう。先述したように、『赤い処女地』を出している「峠」派、『文学の哨所にて』を出しているラップ、『新レフ』を出しているアヴァンギャルドは、三つ巴の抗争を繰り広げていた。そのような状況にもかかわらずライバルの広告を掲載するのは、理解に窮する行為に思われる。

しかしこの疑問への答えは、『赤い処女地』、『文学の哨所にて』、『新レフ』の三誌がともに、国立図書出版所から発行されていることを考えると明らかになる。『赤い処女地』、『文学の哨所にて』両広告の最上段には、ともに「国立図書出版所」の表記がある(ちなみに、当時の大抵の出版物の広告で、それは最上段に位置していた)。『新レフ』創刊号にライバル二誌の広告が掲載されていることからは、広告掲載権がレフでなく国立図書出版所にあったことが判る。アヴァンギャルドには、ライバル誌の広告の掲載を断る権利がなかったのだ。

そして、国立図書出版所が手掛けていたのは広告の掲載のみではない。『赤い処女地』、『文学の哨所にて』の広告のフォーマットに目を向けてみよう。一見それぞれの雑誌の購読を呼びかけてはいるが、字体や外枠のデザインなどが全く同じだ。つまり、両誌は自前で広告を作っていたわけでない。広告の制作もまた、国立図書出版所が行っていたのだ。

このような広告事情は、芸術家のロトチェンコが表紙のデザインを手掛けていた『新レフ』にも共通することだった。『赤い処女地』1928年6号の裏表紙内側に付された『新レフ』の広告を見てみよう。

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図版③『赤い処女地』1928年6号掲載の、『新レフ』広告(中段)。
三つの広告が掲載されており、上から順に『外国文学報』、『新レフ』、『ソヴィエト芸術』だが、これらの広告もまた、外枠のデザインや字体が統一されていることに気づくだろう。そしてページの最上段には「国立図書出版所」の文字がある。つまり、『新レフ』もまた独自に広告を作ってはいなかったのだ。

同様のことは、『新レフ』創刊号の装丁にも表れている。奥付にはロトチェンコが装丁を担当したと書かれており、たしかに表表紙には、この芸術家の写真が用いられている。しかし、裏表紙は明らかに趣が異なっており、ロトチェンコではなく国立図書出版所がデザインしたものであることを窺わせる。
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図版④『新レフ』1928年1号の表表紙。写真は A. ロトチェンコによる。
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図版⑤『新レフ』1928年1号の裏表紙。

ここで改めて、『新レフ』創刊号に他の二グループの広告が掲載されたことの意味を考えてみたい。というのも、『文学の哨所にて』と『赤い処女地』の広告が同時に掲載されたのは、『新レフ』二年間の歴史の中でも創刊号が最初で最後なのだ。やはりこれは、特殊なケースだったのだろう。

『新レフ』創刊号は、『レフ』を失ったアヴァンギャルドが新機軸と共に再び打って出ようとする意気込みを象徴する一冊だ。それによって文壇の抗争の中で存在感を発揮したい、という意図の表れでもある。国立図書出版所がそこに敢えて他の二グループの広告を掲載したことは、その勢いに水を差す行為であり、レフへの牽制に他ならない。国立図書出版所は広告に対する権限を利用して、三誌を、ひいては文壇を統括するのは国家だという立場を強調しようとしたのだろう。

そもそも当時のソ連国家には、文壇の三つ巴の抗争に対し、第四項として文壇全体を制圧する「上からの力」を強めようという向きがあった。その実現形が、1932年に行われた、主要三グループを含む全ての文学グループの解散と、国家が認める唯一の芸術的方法「社会主義リアリズム」の成立(1934)だ。

1920年代後半は、まだ見えぬこの結末を目前に控え、各グループが生き残りを賭けた戦いを行っていた時代であり、そこではまさに、芸術のための戦いが高度に政治的傾向を帯びていた。三グループは互いを牽制し合い、それぞれの目的意識や芸術観の下で発達させた自論をますます声高に主張しようとしたが、それには後ろ盾が不可欠だった。ゆえに、国立図書出版所という形で出版部門を掌握していた国家へ、それぞれのやり方で接近を図ったのだ。他方国家は、各グループへの態度を調整しつつ、文壇全体の制圧へと向かっていった。時に激しく、時にしたたかに、時に冷酷に交わされた駆け引きの跡は、広告という片隅に今もなお息づいている。

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