ラジオチェマダン[02]:『子どもがほしい!』実演・面白さ編

ラジオチェマダン[02]:『子どもがほしい!』実演・面白さ編

セルゲイ・トレチヤコフ 著 伊藤愉 訳 
『子どもがほしい!』(白水Uブックス、2025年8月)
★翻訳刊行記念★

奈倉有里×伊藤愉

ピアノ:山﨑愛

(前編はこちらです:https://chemodan.jp/blog/20250905-2/

*実演・面白さ編*(後編)

チェマダン編集部がお送りするラジオチェマダン、今回は、翻訳が刊行されたばかりの、セルゲイ・トレチヤコフの戯曲『子どもがほしい!』について、チェマダン編集部員でこの本の翻訳者でもある伊藤愉と、同じく編集部員の奈倉有里がお話ししております。ここからの後半は「実演・面白さ編」として、実際に戯曲の一部を読み、登場人物や翻訳について語っていきます。

セルゲイ・トレチヤコフ@チタ(1922)年
https://www.poslednyadres.ru/pictures/TretyakovSM より)

甘い言葉がわからない!

奈倉:伊藤くんちょっと、ここんところ(ミルダと女友達ヴァルヴァラとの会話、p. 69)読んでみましょうか。

伊藤:あ、はい。

奈倉:じゃあ私がミルダ役で、伊藤くんがヴァルヴァラを演りますね。

――――――――――――――――――

伊藤(ヴァルヴァラ):はい、どうぞ。小言は長いの?

奈倉(ミルダ):道徳を説こうなんて思ってないよ。本当に特別な用事があって来たの。

伊藤(ヴァルヴァラ):用事?

奈倉(ミルダ):あなた、甘い言葉をたくさん知っているよね。

伊藤(ヴァルヴァラ):あんたに優しく語りかければいいの?

奈倉(ミルダ):愛している人と話すとき、あなたは相手に魅力的な言葉で話しかけるでしょ。すると彼はすごく優しくなる。そういう言葉を教えて。

伊藤(ヴァルヴァラ):頭、大丈夫? 本当に自分でわからないの?

奈倉(ミルダ):ロシア語にはちょっと弱いのよ、なにしろ私はラトヴィア人の農婦だから。甘い言葉はラトヴィア語でもあまり聞いたことがないし。私を口説いてくる人なんて、いままでいなかったし。

――――――――――――――――――

奈倉:はい。最後、照れ隠しみたいに言葉の話をしてるけど、本質的には言語じゃなく、「そういう状況を知らない」っていう、ミルダのこれまでの人生が垣間見える場面ですよね。

伊藤:そうだね。

奈倉:そういったミルダのちょっと未熟なところに、周りの声として、ものすごく原始的な優生思想というか、優生思想の原型のようなものが重なってくる――たとえばディスツィプリネルっていう登場人物が、小麦やキャベツの品種改良、犬や馬の血統種は、良質な品種を組み合わせたことの結果だ、だから人間もそうするべきだ、という発想になってくるわけですけど、ミルダは環境としてそういうものを聞きながら生きている。で、ミルダはこの当時としてとても真面目で、ある意味、社会的に「正しい」ことを求めている女性だから、この優生学的な思想が、いわゆる「頭がいい」とか「インテリ」とかではなく、「プロレタリアートの子供を産みたい」っていうところにつながる。そうでありながら、実際には冒頭のところでわりとロマンチックな感じで心を惹かれた相手(ヤコフ)にそれを提案する、という、「心で感じているものを、“正しい”とされる思想に結びつけるときの拙さ」みたいなものがある。それがまたひとつ面白いところだな、と思ったんですけど、伊藤くん、どうでしょうか。

第二版ではさらに徹底する主人公

伊藤:まさにほんとそうで、実はこの『子どもがほしい!』って、かなり書き換えられた第二版があって、今回翻訳したものはモスクワの共同住宅を舞台にしているんですが、第二版は場面が集団農場に移っていて、そこではミルダは農学者みたいな立場になっていて、非常に理知的で科学的で、感情があんまり介入しないようなキャラクターに書き換えられている。でもこっちの第一版では、まさにいま奈倉さんが言ってくれたように、人間味があるというか、ミルダ自身のなかで「こういうふうにしたい」があるんだけど、そこに人間的な感情が介入してきて、ミルダ自身もそれをうまく制御しきれないようなキャラクターとして描かれていて、むしろそのほうが演劇的には面白いかな、と個人的には思ったりもするんだけどね。

奈倉:そうですね。そうなると第二版はかなり違う戯曲、という感じがするんですが。

伊藤:そうだね。第二版はかなり違う。それこそ集団農場だから、農場の動物とかを使って優生学の議論が展開していくような、そういう作りになっているかな。

奈倉:なるほど。それは、戯曲としては第一版のほうが面白そうですね。ただ、優生学の議論を考えるなら第二版も参照したいところではありますけど。

伊藤:あと、優生学はこの時代(1920年代)よく議論されていて、でも1930年代になるとナチスの優生学的思想から優生学それ自体が言説として禁止されていくっていう流れがあるんだけども、ソ連の優生学の流れでいうと、ルイセンコ主義[1]とか、植物の獲得形質が遺伝する(環境因子が形質の変化を引き起こして、それが遺伝していく)っていう議論が1920年代には盛んにされていて、それがこの作品にも影響しているんだよね。さっき奈倉さんが言ってたけど、「頭がいい」とか「体力がある」とかならわかるし、ミルダが選ぶときもヤコフの性格とかを含めて選んでいるわけだけど、「プロレタリアートの精子がほしい」ってさ、ちょっと考えるとおかしくって、プロレタリアートって、性質じゃないじゃん。

奈倉:確かに、「遺伝」の要素として真っ先に浮かぶものではないですよね。

伊藤:そうそう、「労働者の子供がほしい」って、ちょっと意味がわからないっていうか、そこに遺伝がどうかかわってくるの、みたいな気がするんだけど、たとえばルイセンコ主義と重ね合わせると、プロレタリアートという立場で生きている人間はそれに適した形質っていうのを獲得していて、それが遺伝していくっていう解釈もできる。もちろんルイセンコ主義っていうのはそのあと完全に否定されてるから科学的には間違っているんだけど、そういった状況がミルダに反映されていると(記録のなかでそう語られているわけじゃないけど、当時の時代背景を考えると)そういうふうに読むこともできる。

奈倉:ミルダはじゃあ、労働者として生きていることによってヤコフの遺伝子になにかしらの変化が起きていると考えているというか、感じとっているっていう……?

伊藤:っていうほどにも戯曲のなかでは描かれていないんだけど、「プロレタリアートの精子がいい」ってのは、そうとしか読み解けない。で、ちょっとわかんないのはトレチヤコフがどれだけ本気でこれを書いていたのかっていうところなんだよね。

『新レフ』1928年第10号表紙
https://www.rusbibliophile.ru/Book/novyy-lef-ezhemesyachnyy-zhurn より)

著者の提唱した「ファクトの文学」とは?

奈倉:実際トレチヤコフはどう考えていたのか、伊藤くんとしてはなにか仮説はありますか。

伊藤:いや、どうなんだろうね。こういうのわからないよね。

奈倉:そうですね。

伊藤:ただ、トレチヤコフの特徴として1920年代に文学理論で活躍した人物でもあって、トレチヤコフやその周囲の人たちが提唱したことのひとつに「ファクトの文学」ってのがあって、現実をそのまま映しとるのがこれからの文学の新しい姿だ、あるべき姿だ、ってことを提唱した人でもあるんだよね。そういう意味では、写真とか映画にも関心があったし、無記名の新聞記事とか、ああいうものこそがこれからの文学のモデルになる、作家性を削いでいく、ただ目に映ったものだけを書き留めていく、みたいなことを提唱していたのが「ファクトの文学」で、その中心にいたのがトレチヤコフなわけだけど。トレチヤコフは、記述しているものに自分の思想をあんまり反映させないみたいなことがおそらく大事だったんだよね。それを戯曲でやろうとしている側面はきっとあるだろうな、とは思っていて、本気で考えていたかどうかっていうのはトレチヤコフにとってもしかしたらそんなに大事じゃなくて、そういう言説があった、そういう社会があった、っていうことがこの戯曲のなかで記述されていると。

奈倉:つまり、私たちはこの戯曲を読むと、1920年代のソ連を、かなりまざまざと垣間見ることができるんじゃないかっていう気がしますけど。

伊藤:そうだね。ただ、一方で、たとえばドキュメンタリー演劇ってのがいまはあって、当事者の言葉を使って演劇が作られる。その「事実」というものがあるという前提で舞台上で語られるわけなんだけど。でもその事実ってなんだろう?って。つまり演劇って、それそのものじゃないじゃん、必ずなにかを表象せざるをえないっていうか、必ずなにかを表現するっていう、表現の手法にならざるをえないから、トレチヤコフのこの戯曲も、「まざまざと見る」んだけども、それが1920年代そのものかどうかっていうのはやっぱり難しくて、「トレチヤコフが見たもの」か「まざまざと見ている気になる戯曲」か、みたいな言いかたが適切なのかな、と。

魅力的なキャラクターたち

奈倉:確かに、いわゆる「ドキュメンタリー的」な作品ではないな、というのは読んでいて思うわけなんですよね。たとえば、キャラクターなんかについてもそうです。これだけ当時としてリアルなテーマと内容を詰め込んでいるわりに、全体的にドタバタ劇っぽいところがあって、個性豊かな登場人物がたくさん出てくる。たとえば「葬儀屋」ですよね。ソ連時代になってはじまった「火葬」に対する言及とか、時代感を表すところはあるんだけれども、「春は最も幸せな季節です、死人がたくさん出る」から、みたいなセリフで、古き良き戯曲感を出しているところもあって、キャラクターとしてすごくいい味をだしていると思うんですけど、こういう、舞台を盛り上げてくれるキャラクターってこの戯曲にはけっこういますよね。

伊藤:いるね。まあほんとに、「楽しく読んでほしいな」っていう気持ちがいちばんなんだけども。こういう話ってくだらないかもしれないんだけど、誰がいちばん好き?(笑)

奈倉:やっぱ葬儀屋じゃないかな?(笑)

伊藤:あ、葬儀屋なんだ。葬儀屋いいよね。葬儀屋、最後もちゃんと出てくるけど。トレチヤコフって意外と、事実をそのまま映しとるとか言うけど、技を使うのが好きというか、けっこう前半部でいろいろネタを仕込んどいて、あとで回収してるところもあって。葬儀屋も後半回収されたりもしてるからけっこう面白いよね。僕はやっぱディスツィプリネルかな。

奈倉:どういうところがいいんですか?

伊藤:なんだろう、コミュニケーション不全の天才型、みたいな、自分の頭のなかでいろんなことが暴走していてそれをうまく他人に伝えられない。そのために周りと軋轢を起こしてしまう。

奈倉:なるほど、そういう人いそうですよね。

伊藤:いるよね。奈倉さんもそのタイプかもね(笑)

奈倉:なんでですか(笑)でも私は……、ミルダはなんだかんだいってすごく、魅力的な主人公だなと思いますよ。

伊藤:ありがとうございます。ってお礼言うのはおかしいか。

奈倉:特にその、さっき言ったような未熟さっていうのが非常に生き生きと描かれていて、そのあと彼女自身が下していく決断に、周りの環境が左右しているのが、戯曲を文字で読んでいてもわかる。そこで出てくる悪いやつ、管理人っていうのがいますけど、これ以降のソ連文学でも管理人っていうと定番の「曲者」っていう感じがありまして、だいたいいちばん嫌なやつなんですけど、ここでもその変なやつが出てくる。で、この管理人に迫られたところは、ミルダにとってかなり転換点というか、大事な場面だなというふうに思いました。ミルダの、さっき言ったような「未熟さのうえに直接理論が乗ってしまうようなところ」には、こういったことによる心の傷みたいなものも一緒に作用している。心理描写として描いたらけっこう複雑なはずのことを、戯曲で書けてしまっているのは、すごいなって思いました。

伊藤:なるほどね、確かにね。ここの人たちって、ディスツィプリネルもそうだしミルダもそうだし、ほかの人たちもそうなんだけど、理論とか理屈とかその当時の思想が反映してたり、いろいろ語ったりするんだけれども、比較的、身体的に生きてる人たちが描かれてる感じがするんだよね。身体と空間の反応、身体と他者の関係性とか、そういう身体性がこの戯曲のなかにはあるかなって。

『子どもがほしい!』舞台装置平面図(1928年)

語尾の翻訳秘話?!

伊藤:ここで奈倉さんに質問したいことがあって。いいですか?

奈倉:はい、どうぞ。

伊藤:奈倉さん戯曲って翻訳したことあったっけ?

奈倉:ない。

伊藤:戯曲ないか。まあ小説も一緒だと思うんだけど、やっかいだなって思うことがいくつかあって、(戯曲は)基本的にセリフじゃないですか。日本語の語尾が難しいなって、翻訳してて思うんですよ。「これは彼らの父親だ」っていうふうに僕が訳したところがあるんだけど、「だ」で終わらせるべきか、「だな」とすべきかどうか。その前の男性客のところも、「一本足だ、もう一本足りないぞ」とかも、「一本足だ、もう一本足りない」って、「ぞ」をつけなくたっていいわけじゃん。

奈倉:そうですね。

伊藤:こういうのってさ、どうすればいいんだろうね。

奈倉:まあ、なにか付け足したほうが、わかりやすくなることはあるよね。やりすぎるとわざとらしくなる?

伊藤:小説とかでもある?

奈倉:小説でも会話の部分ってのはあるよね。

伊藤:特に今回ちょっと気をつけたというか気にしたのはミルダの語尾。いわゆる日本語で女性言葉ってあるじゃん。「〜だわ」とか「〜よね」みたいな。そういうのをどうするかっていうのはすごく迷って。

奈倉:でも私は、ミルダの口調すごくいいなって思ったんですけど、完全に女言葉ではぜんぜんないのに、女の子が発話しているんだな、っていうことはわかる、でもちょっと意図的な女言葉は(ミルダ自身が)避けている、っていうような、そういうラインで翻訳してるのかなと思って、すごくその、男の服を着ているミルダ、という存在が思い浮かぶような気がしましたね。

伊藤:ほんとに嬉しい。ちなみに、ミルダのセリフを訳すときに、ときどき奈倉さんの話しかたを思いだしながら語尾を考えてた。

奈倉:ちょっと待ってよ(笑)思わぬところで私が出てきましたが。

伊藤:ちょうどいいんだよね、奈倉さんの喋りかたが。

奈倉:ちょっとよく、わかるようなわからないような、私がミルダに親近感を持ったのはもう「してやられた!」という感じがしますけど。

伊藤:どうなんだろうね。キャラクターとしては奈倉さんとミルダってだいぶ違うと思うけど、発話のテンションとかはちょっと、近いのかなって。

奈倉:いま初めて知った、衝撃の事実。

伊藤:ぜんぶじゃないけどね、もちろん。語尾どうしようかな、みたいなときに、奈倉さんこういうときなんて言ったかなって。

奈倉:それはまあ、光栄ですといえばいいのか(笑)

伊藤:どうなんだろうね。光栄なのかどうかもわかんないけど(笑)

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奈倉:ということで、2回にわたってお送りしました、セルゲイ・トレチャコフ作の戯曲『子どもがほしい!』のお話でした。この作品にはまだまだ、現代に通じるテーマ性もあるし、解釈をする楽しみのある本だと思うので、ぜひ、いろんな人の感想も聞きたいし、あとやっぱり個人的には実際に舞台でやってるところを見たいな、と思いました。どこかでやってくれるといいんですが。それでは今回はここで終わりです。またお会いしましょう。


[1] 生物学者トロフィム・ルイセンコ(1897-1976)の学説。1920年代以降のソ連で推奨された。

ラジオチェマダン[01]:『子どもがほしい!』基礎知識編

ラジオチェマダン[01]:『子どもがほしい!』基礎知識編

セルゲイ・トレチヤコフ 著 伊藤愉 訳 
『子どもがほしい!』(白水Uブックス、2025年8月)
★翻訳刊行記念★

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奈倉有里×伊藤愉

ピアノ:山﨑愛 

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基礎知識編(前編)

オンライン雑誌「チェマダン」編集部がお送りするラジオチェマダン、今回は、今年の夏に白水社から刊行されたばかりの、セルゲイ・トレチヤコフ著『子どもがほしい!』について、「チェマダン」編集部員でこの本の翻訳者でもある伊藤愉と、同じく編集部員の奈倉有里が、いちはやくいろいろ語ってみたいと思います。前半は、「基礎知識編」として、作者や、作品タイトルの意味などについてお話しします。

セルゲイ・トレチヤコフ(1892-1937)
撮影(1928):アレクサンドル・ロトチェンコ

激動の時代を生きた多才な作者

奈倉有里(以下「奈倉」):あらためましてこんにちは、チェマダン編集部、奈倉有里です。

伊藤愉(以下「伊藤」):チェマダン編集部、伊藤愉です。

奈倉:ということで、今回は伊藤くんの翻訳した戯曲、『子どもがほしい』という作品についてお話ししていきたいと思います。まず、作者のトレチヤコフについてお聞きしたいんですが。

伊藤:奈倉さんは、トレチヤコフって事前にイメージとかありました?

奈倉:なにか、いろいろやっていた人じゃなかったかな、というイメージですね。

伊藤:あ、やっぱそうだよね。確かにトレチヤコフってほんとにいろんなことをやっていた人で、メインは執筆活動なんですけど、写真も撮っていたり、その写真に自分でテキストをつけたりとか。デビューは詩人だったんですが、ジャーナリスティックな活動をしたり、エイゼンシテイン(『戦艦ポチョムキン』で有名な映画監督)と一緒に映画のシナリオを書いたり。エイゼンシテインはもともと演劇からキャリアを始めた人なので、エイゼンシテインの演劇作品の戯曲を書いたりとか。エイゼンシテインの「演劇における師匠」と言われるメイエルホリドという人がいるんですけれども、そのメイエルホリドに戯曲を書き下ろしたり提供したりとかいうことをしていて、(演劇を専門としている)僕の関心は「演劇におけるトレチャコフの戯曲のありかた」ですね。

奈倉:はい。 たいへんいろいろな活躍をしていた人なんですね。帯に「この本は、第二の戦艦ポチョムキンになるだろう」っていうマヤコフスキーの言葉が入っていますけども、なるほど、そういうところ(エイゼンシテインとのかかわり)から、この「第二のポチョムキン」という言葉が出てきたわけですよね。 じゃあ、この作品は映画になる予定があったっていうことですか?

伊藤:それもちょっと難しいんですけど、最初は演劇用に描かれて、それをもとにして映画を撮ることもプランとしてあった、でも当時は検閲なども厳しくて、さまざまな理由から上演することも撮影することもできなくて、結局そのプランだけ、テキストだけが残っているっていう、そういったものだったんですね。

奈倉:やっぱり実際に演劇になったところとか、映画になったところを、いまからでも見てみたくなるような気がしますけど……。トレチヤコフは、最終的には粛清されて亡くなってしまうんですよね。

伊藤:そうなんです。

奈倉:かなり、激動の時代を生きた人、という感じがしますね。

梅蘭芳モスクワ巡業時(1935年)のセルゲイ・トレチヤコフとセルゲイ・エイゼンシテイン(https://artguide.com/posts/2197より)

『子どもがほしい!』という題名の先にあるものは?

奈倉:そのトレチャコフの作品のなかで今回翻訳された『子どもがほしい!』という戯曲なんですけど、私がこの本を手にとったとき最初に驚いたのはタイトルで、「子どもがほしい!」っていうのは、内容の想像がつきそうでつかない。つまり、いったいどういう人物が、どうして、どういう社会のなかで「子どもがほしい!」と言うかによって、ずいぶん意味が変わってきそうな感じもします。たとえば現代は、一方では子供を持たない選択肢も増えていながら、他方では少子化対策などと称して女性に子供を産むことを奨励したり強要したりするような風潮もありますから、ひょっとしたらこのタイトルって、目にしたときに現代の私たち自身の問題を連想して、手にとりづらい人もいるんじゃないか、と思ったんですけど。実際に読んでみると、結論からいえば、そういう問題意識とかもやもやを持っている人にこそ読んでほしいな、と思ったんですね。なんといっても主人公の女の子ミルダは、子どもがほしい、でも夫はいらない、結婚もしない、子どもを産んで、そのあとは自分と社会が育てていくんだ、そういう社会を作ることこそが必要なんだ、という具合に、要するにこの本は、「子どもがほしい」というタイトルからふつうに連想される内容を何重にもくつがえしていくような、そういう面白さがあるように思うんですけど、伊藤くん、どうでしょうか。

伊藤:でもちょっとその話をする前に、訊いてみたいんだよね、「手にとりづらい」っていうふうにさっき言っていたけど、「子どもがほしい!」っていうタイトルから、たとえば奈倉さんはどういう印象を受けるんだろう?

奈倉:たとえば……。すごく現代的な感じでいうと、夫婦が手をとりあって「私たち、子どもがほしいよね」って言ってるとか、そういう図を思い浮かべますが。

伊藤:ああ、なるほどね。ちょっと発想としてなかった気がする(笑)。そっか。確かにそういう内容ではまったくないね。

奈倉:たとえばインターネットで「子どもがほしい」っていう言葉を検索したら、最初に出てくるのはそういう関係のことだと思うんですよ。

伊藤:なるほど。確かにそれは違うね。でもある意味、これから話す戯曲の内容とかミルダの欲求っていうのは、時代特有のものでもあるんだけど、普遍的というか、現代にも通ずるような社会的問題と絡みあった欲求っていうふうに言えるかな。

エリ・リシツキーによるミルダの衣装エスキス(1927-1930)

出産・育児の負担から女性を解放したい主人公

奈倉:この本の大きなテーマっていくつかあるんですけど、ひとつには女性の社会における扱われかたとか、生きかたっていうものがあって、ちょうどこれは百年くらい前の作品になるんですけど、時代を経たなかでまだまだ現代性のあるテーマですね。冒頭で演劇内演劇の話が出てきたとき、「女性解放をうたう造形的なシンフォニーのための舞台美術」を作ってるんだ、という言葉が出てきます(p. 22)。そしてその舞台の内容は、「第一場面、鎖に繋がれた女性。第二場面、鎖を断ち切れ。第三場面、夢の洞窟のそばでの華麗なフィナーレ」(p. 26)という、場面のタイトルの形で内容が示唆されます。こういうのは当時できたばかりのソ連のなかで、多くの人が夢見ていた理想のひとつでもあるわけですね。ほかにもこの作品には、1920年代のソ連ならではの、多くの理想と現実がぶつかりあうシーンが描かれます。こうした女性解放の理想もそのひとつなわけですが、その一方で、かなりどうしようもない現実や、それを嘆いている人々の姿も描かれる。たとえば妊娠している女性が、妊娠したけど夫は死んでしまった、「高圧電流に感電して、あっというまに死んじゃった」(p. 28)と語って、別の女性が「男はみんなクズだし」(p. 29)と言ったりするわけだけど、こうしたぶつかりあいが随所に描かれますね。なにか思うことはありますか。

伊藤:確かにね。ひとつは、ミルダがやろうとしてることっていうのは――1917年にロシア革命が起こって、ロシア帝国が崩壊してソ連になって、「新しい社会主義国家を建設していく」っていう段階になる。ソ連は結局1991年まで続いたけど、1920年代の人たちにとってはこの新しい国がどこまで続くかなんてわかんないじゃないですか。そもそも革命がほんとに成就したかどうかもわからない。そういうなかで、社会を新しく作っていかなければいけないっていう感覚が、当時の知識人やある一定の人たち、あるいは労働者たちのなかにもあった。じゃあそういうときに、どうやって社会を変えていくかというと、そのひとつに生活環境っていうものがあったと思うんだよね。まず産業革命や工業化、1861年の農奴解放を経て、19世紀後半から都市に労働者が流入して人口が増え、そこに社会主義革命が起こって、一気に都市の人口が増大する。そうすると人が増えすぎて住む場所がなくなる。それを解決する方法のひとつが、革命前に貴族が住んでいた邸宅を、すごく細かく分割して、何世帯もそこに押し込んで、共同生活をさせる。そういう形で住宅問題を解決させようっていう動きがあった。それがコムナルカ(共同住宅)っていうものだったじゃないですか。そこで、「女性はそのなかでどうやって存在していくのか」っていうのがひとつの社会的なテーマになっていった。

奈倉:そうですね、主人公のミルダにしてもそういう社会のなかで揺れ動いているという感じが描かれていると思います。押し込められたひとつの場所にいろんな人がいる状況のなかで、のっぴきならない問題をみんな抱えていて……なるほど、いま聞いていると、やっぱりそういった集団生活という背景も(作品の要素として)大きいんだなと思いました。

伊藤:そう。で、主人公のミルダはそういう集団生活のなかで、さっき奈倉さんが言ってたような、女性が解放されて社会に出ていけるかっていうことを、非常に強く考えていた。そのためにミルダは、いまの日本語でいえばいわゆる託児所的なものをつくろうとしていた。で、これはいまの日本でもほんとうにまったく同じなんだけど、女性が社会に出ていけずに縛りつけられているのは、家庭の問題、さらに言えば子どもの問題で、1920年代当時のソ連においても、女性を家に縛りつけているのは子どもの問題であって、その問題を解決しなければ、子どもを持つことはかなり難しい、と。だとしたら、子どもを育てるっていうタスクを社会的なタスクとして捉えなおしたら、女性が個人として個人として家庭にとらわれることなく、社会に解放されていくことができるんじゃないかということから、ミルダは「子どもの家」(託児所)を作ろうとしていた、ということですね。

模型を製作するエリ・リシツキー(1929年)(https://www.moma.org/collection/works/84034 より)

*ソ連時代の共同住宅(コムナルカ)について次のような記事も:
https://jp.rbth.com/arts/2014/11/12/51041

優生学が宿る、社会や人間の未熟さと、音の混沌

奈倉:はい、そうですね。社会的タスクということを非常に真剣に考えている主人公のミルダなんですが、他方ですごく未熟なところがあって……。この作品のテーマのひとつに、優生学に傾倒することに対する問題意識っていうものがあると思うんですけど。優生学はこの当時は世界的な流行をみせていたので、そういう意味では歴史的な背景というものがあるわけです。他方で、当時から優生学は常に、人種や、障害を持つ人々、あるいは根拠のない偏見に基づいた差別と隣りあわせであるという批判もあって、その後、大きな(現代に続く世界的な)流れでみるなら1970年代以降は強く批判され、その後は下火になったかとおもいきや、近年、遺伝子操作や精子や卵子の保存が可能になったことなどもあって、優生学に傾倒する危険が新たに浮上している状態で。この作品から百年が経ったいまでも、優生学的なことをいう人とか政治家っていうのは定期的に出てきて問題になるんですけど。

伊藤:そうだね。

奈倉:個人的にはやはり全般的にそうした言説においては「公平という概念の未熟さ」が目につくと思うんですよ。それを、たとえば論理的・倫理的に「どうしてそれがいけないのか」という説明をされてもいまいちピンとこない人にとっても、この『子どもがほしい』という戯曲の登場人物たちの未熟さがかもしだす現実味っていうのはわりと読んだ人に体感として通じるんじゃないかなって思ったんですね。

伊藤:なるほど。

奈倉:その理由のひとつとして、ここではそれが主人公のミルダの未熟な感情発達の上に成り立っている、っていうことが挙げられると思うんです。

伊藤:面白い。

奈倉:まずひとつめ、よその赤ちゃんが泣いていると、まるで男性から口づけされているように感じる、という場面があって(p45)、なぜ赤ちゃんの泣き声と男性の口づけがつながるのか、たぶん普通、あまりピンと来ないんじゃないかと。

伊藤:おお、なるほど。

奈倉:え。これって、生まれた赤ちゃんと、それにつながる生殖行為、さらにはそれにつながる男女のかかわり、というものを、いっしょくたにして感じとっている、と解釈したんですけど、どうでしょう。伊藤くんはどう思いますか?

伊藤:それはあまり意識しなかったかも。読んでいるときもそういうふうには感じてなくて、いま聞いていてなるほどと思ったんですけど、あれは単純に――子どもの声って、騒音として捉える人もいるじゃないですか。いまだって。

奈倉:はい。

伊藤:でもミルダは子供の声を騒音ではなくて、愛らしいというか、愛おしいものとして聞いている、それを比喩として「男性から口づけされているように」っていうふうに、読んでいたんだけれども。

奈倉:なるほど。ここは読む人によっていろんな解釈が可能そうなところですね。

伊藤:でもさ、けっこうこの戯曲のなかで、音の描写って多かったりするんだよね。

奈倉:はい。

伊藤:やっぱさ、共同住宅、狭い空間に何人もの人間が一緒に暮らしているから、ひどいときはパーテーションみたいな木の板だけをたてるだけで、音とかも筒抜けみたいな状況で暮らしていたわけで。

奈倉:はい、そうですね。

伊藤:そういう狭い空間に音が響き渡っている雰囲気っていうのが、この戯曲ではよく出ているかなっていうのがあって。それも自分としては面白いところかな、と思いながら訳していました。

奈倉:そういった、いろんな人の声とか考えかたってが響きあうことによって、それらが相互作用や化学反応を起こしているところは、読んでいて私もすごく面白いなって思いましたね。

伊藤:そうだよね。

―――――――――――――

奈倉:というわけで、新しい国家ができてまだまもない1920年代のソ連で、さまざまな人々が理想の社会を求めながらぶつかりあう戯曲『子どもがほしい』。その雰囲気も、主人公たちの人間らしさも、ぜひ実際に読んだり演じたりして楽しんでもらいたい本だなと思います。以上が「『子どもがほしい』基礎知識編」でした。さて後半は「実践・面白さ編」として、実際に戯曲の一部を朗読し、キャラクターたちの具体的な魅力にも迫っていきたいと思います。

後編はこちらです:https://chemodan.jp/blog/20250905-3/


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【出版情報】

U263 子どもがほしい! (https://www.hakusuisha.co.jp/book/b664265.html

内容説明

「子どもがほしいけど、夫はほしくない」

十月革命と内戦を経た一九二〇年代半ばのモスクワ。ネップ期で活況を呈す都市には⼈びとが⼤量に流⼊しており、主⼈公のミルダらはソ連式の共同住宅で暮らしている。女性共産党員であるミルダは、女性の社会進出を阻害する「子どもの問題」を解消すべく、住宅に付属する新しいタイプの託児所の創設に奮闘する。そうしたさなか、風貌はときに男性に間違えられ、色恋にはまったく関心がないミルダも、あることをきっかけに「子どもがほしい」という欲望をもっている自分に気づく。ミルダは優⽣学的思想に基づき、良質な精⼦を提供できるだろうとの見立てのもと、優秀なプロレタリアートのヤコフを自らの計画に誘うのだが……。メイエルホリドがリシツキーの舞台装置で演出を企て、盟友ブレヒトもまたドイツで上演を望んだ、共産主義社会にあるべき「家族」像を議論する演劇史上の問題作! 投げ込み附録エッセイ=桑野隆

【著者略歴】

セルゲイ・トレチヤコフ(1892–1937)

現在のラトヴィア出身の詩人、ルポルタージュ作家、劇作家、映画脚本家、写真家、文芸理論家。モスクワ大学在学中の1913年に、未来派グループ〈詩の中二階〉に参加、詩の発表を始める。内戦期には極東やシベリアで詩人として活動する傍ら、筆名で政治コラムを新聞に寄稿。22年秋にモスクワに戻り、中心メンバーとして雑誌『レフ』の発行に携わりながら、メイエルホリドやエイゼンシテインらの演出作品に戯曲を提供。24年から25年にかけて中国に滞在、戯曲『吼えろ、中国!』など中国を題材にした作品を多数著す。映画産業との関係も深く、『戦艦ポチョムキン』の字幕を担当したことでも知られる。27年創刊の『新レフ』でも中心的な役割を担い、広くルポルタージュへと活動の軸足を移す。30年から31年にかけてドイツ、デンマーク、オーストリアに滞在、ブレヒトやピスカートアらと友誼を結んだ。37年に逮捕・銃殺される。

【訳者略歴】

伊藤愉(いとう・まさる) 
明治大学文学部専任准教授。専門はロシア演劇。訳書にイートン『メイエルホリドとブレヒトの演劇』(共編訳)、ガウズネル『見知らぬ日本』など。