ユリヤ・ボリソヴァ (Юлия Борисова / Julia Borissova)―記憶と過去の写真―

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Юлия Борисова / Julia Borissova, «Бегство на край» (“Running To The Edge”)

コースチャ:こんにちは、ユーリャ(ユリヤの愛称)。僕は「辺境への逃避」シリーズを見て、最初にあなたの創作を知りました。あなたはそのシリーズで前世紀のロシア人亡命者たちの古い写真を使い、花びらでそれらの写真に応答しています。花びらによって写真を「変形」させ、その結果新しい方向性と美学をもった表現を獲得しています。このシリーズはソニー・フォトグラフィー・アワードの最終選考にも入りました。あなたの成功が見られてとてもうれしいです。

最近あなたは写真本『遥かなる岸』を出版しましたが、そこでも過去の写真を使っています。これは1930年代に水力発電所建設のために水没した村についてのフォト・エッセイです。けれども、「水没した村に関する」本と語ってしまうのは、もちろんきわめてよくないことです。ある時僕は、水没したスタヴロポリの代わりに創設された村、トリヤッチに住むことになったんです。僕が貯水池で泳いでいた時、僕の下にはきっと泥や砂にまみれて教会や家が建っていて、かつてそこには人々が住んでいたけれども、今は魚が泳いでるんだなと思ったんです。すごく奇妙な気分になりました……。この作品での、他人が撮影した古い写真、まるで思い出から出てきたようなあなたの風景、イコン、水の写真と、現代の人々の写真との戯れがとても気に入りました。あなたは、原理的に思い出せないことを思い出そうと試み、その結果集団的な記憶を復活させることに成功しています。これはとても素晴らしい試みで、こんな本が自分の家にあればいいなと思います。

三番目のあなたの作品「ドーム [DOM]」はごく最近のものですが、これもまた記憶のテーマと固く結びついています。「ドーム」は、Documental Object Model(記録される対象の模型)とロシア語のDOM(家)をかけた、うまい言葉遊びですね。あなたは自分の家の「フルシチョフカ」(フルシチョフ時代の集合住宅)を模型として使い、それを別の空間と融合させています。このシリーズを制作中に、あなたはフェイスブックにいくつかの写真をアップしましたが、僕はまさに「フルシチョフカ」が取り壊されたところに住んでいたんです! 最初に、棚、ありとあらゆるガラクタ、バスタブまでが窓やバルコニーから投げ捨てられ、その後家は数週間の間ガラス窓も電気もなく空っぽでした。特に夜はとっても不気味に見えました。とても重苦しい雰囲気になったんです。後になって僕はサイトであなたの作品を見て、僕がながめていた真っ黒な死んだ窓のついた空っぽの家を思い出したんです。この思い出のおかげで僕はあなたの作品をよりよく理解できましたし、そこに何か新しいものを見出したんです…もちろん、これは言葉では言いにくいんですけれども…。

この三つの作品では、あなたはとても巧みに現代的なテーマに個人的な欲望と優れたアイディアを融合させています。僕の意見では、それらは僕が言及しなかったあなたの初期の作品とははっきりと異なっています。あなたの創作はどのように発展したのか教えてください。


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Юлия Борисова / Julia Borissova, книга “The Father Shore”

 


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Юлия Борисова / Julia Borissova, проект “DOM”

ユーリャ:私の創作は、自分自身に疑問を投げかけるようになった時に発展し始めました。その問題は、何のために撮影するのか、なぜこんなにたくさん撮影するのか、私は自分の写真によって何を言いたいのか、誰に向けて自分の作品を制作するのか、といったことです。問題が多くなればなるほど、自分の制作プロセスに対するアプローチについて考えるようになりました。私は課題を立てることを通して、写真の領域で自分の道を模索することを覚えました。以前は、私の興味はドキュメンタリー写真の範囲内にしかありませんでしたが、今は自分の作品のコンセプチュアルな側面により興味を持つようになりました。

コースチャ:「辺境への逃避」シリーズは、キエフの国際ヴィジュアルカルチャー・フェスティバル「Vizii」の記憶をテーマにしたプロジェクトに出品されましたね。現在、過去の写真を利用するブームがあるように思います。あなたにとってこのような写真は何を意味するのでしょうか。記憶のテーマはなぜあなたをこんなに興奮させるのでしょうか。

ユーリャ:その最初の誕生から、写真の運命は忘却と戦うことでした。写真アーカイヴは、起こったことについての記憶を保存するための、多くの手段のひとつです。私にとって過去の歴史は常にインスピレーションとアイディアの源ですが、これは自分の創作において記憶のテーマにのみ取り組むことを意味するわけではありません。それよりもずっと、イメージを生み出すことに興味があり、自分の芸術実践を発展させることに関心があります。「辺境への逃避」シリーズでは私にとって過去の写真は素材です。その素材を用いて、昔から真実であることに価値が置かれてきた写真というメディウムを通して、私の知らない人々に対しての全般的であいまいな喪の雰囲気を創り出しています。私は象徴的な効果を得るためにドキュメンタリーという記号のボキャブラリーを利用するのです。

コースチャ:「ドーム」について質問があります。サイトに掲載されたこのシリーズでは、真ん中と終わりの二つの写真で家の模型が燃えています。おそらく、最後の写真でのみ家が燃えているなら、ぼくはこの質問をしないでしょう。あなたにとってはどの程度これは象徴的なものであり、なぜ家の模型は二度燃えているのでしょうか?

ユーリャ:どうして私があのイメージやこのイメージを創り出したのか、なぜひとつのシリーズの中で、あるイメージが何らかの強さで繰り返されるのか説明したくはありません。私があてにしているのは、提示された表現を解釈するのに自分の中に可能性を見つけ出す、思慮深い鑑賞者です。

コースチャ:僕はあなたのフェイスブックで、家の模型の中に植物を栽培する様子を見ました。これは作品の続きなのですか? それとも次の作品の一部なのですか?

ユーリャ:家の中に植物を栽培すること――これが作品の基本的な点で、作品に関する重要なアイディアは「生育する家」のユートピア的バージョンを生み出すことでした。私の課題はイメージを生み出すのみならず、文字通りの意味でイメージを「育てる」ことです。ですから、生育過程そのもの、帰結としての対象の外見的変化の過程そのもの――実験の各段階すべてを通じて私はそれを記録したのですが――によって、われわれの家に対する考えが時間と共にどのように変化するのか、われわれが住む場所と結びつくと家に対する考えはどのように変化するのか、私は思考することになりました。

コースチャ:現代のロシア写真には特徴があると考えていますか? それとも無個性なのでしょうか? つまり、もし誰が作者かわからないとして、ヨーロッパの写真家とロシアの写真家とを比較できるのでしょうか…。もちろんこれは挑発的な質問で、誰をどのように比較するか次第なのですが…。でも、これに関してあなたがどう考えるかに興味があるんです…。

ユーリャ:現代の写真には、感覚的なレベルではない評価が必要であるという特徴があるように思います。現代の写真では、多くの場合、鑑賞者が作品にアイデンティティを見出すことはありません。そのかわりに、批評的なレベルでイメージを評価すること、あるいは退けるということが生じています。この問題を念頭に置くと、ロシアの写真家と国外の写真家を比較するつもりはありません。なぜならば、もしも写真が私の興味を惹いたならば、私にとってはその作者がどの国の出身であるかは重要でないからです。

http://www.juliaborissova.ruß


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