世界のアートシーンを目指すアゼルバイジャン

世界のアートシーンを目指すアゼルバイジャン

ベネチアビエンナーレ、アゼルバイジャンパヴィリオン

2013年初夏から秋にかけて2年に一度の現代美術の祭典、ベネチアビエンナーレが開催されている。ベネチアビエンナーレでは参加国がパヴィリオンを設置して展示を企画する。そこではその国のアートの最先端が提示されるだけではない。とりわけ小国にとっては欧米を中心とする美術の領域においてどのようなスタンスを取るかが試されるのである。

カスピ海の沿岸に位置するアゼルバイジャンは自国の伝統文化をアピールする展示を打ち出した。入り口に入ると特産品である絨毯の柄に覆われたリビングルームが観客を迎え入れる。床も天井も壁もソファーも、液晶テレビさえも絨毯の模様に包まれている。これは1985年生まれのファリド・ラスロフ(Farid Rasulov)によるインスタレーションである。ラスロフはベネチアの広場に位置する数百年も前に立てられた宮殿をアゼルバイジャンを象徴する空間に変貌させた。

このエントランスのインスタレーションはアゼルバイジャンパヴィリオンの意図を最もよくあらわしている。アゼルバイジャンがテーマに掲げるのは「装飾(Ornamentation)」である。イスラム教国アゼルバイジャンは古くから抽象的な装飾模様の伝統工芸品を発達させてきた。今回アゼルバイジャンの若手アーティストたちはこの伝統的遺産にさまざまな現代的アレンジを加えてみせた。

写真家のファフリア・ママドヴァ(Fakhriyya Mammadova)は花嫁の写真を大小の円形のフレームに入れて壁一面に展示した。ここではドレス姿の花嫁が伝統的な結婚の儀式を粛々と執り行う様子がレポートされる。ママドヴァの作風はドキュメンタリーと私的な写真を融合させる手法を模索する写真家たちの系譜に連なる。しかしエキゾチックな題材と装飾的な展示方法をあえて取り入れることによって、ママドヴァはアゼルバイジャンの民族色を強く前景化させる。さらに今回展示されたもう一人のベテラン写真家サナン・アレスケロフ(Sanan Aleskerov)は、ポラロイド写真によってアゼルバイジャンの自然や身の回りの風景を映し出す。大きく引き延ばされることによって植物や風景は抽象的な模様に変化し、ポラロイドの淡く濁った色彩がメランコリックな印象を与えている。

中でも観客を最も喜ばせていたのが、ラシェド・アラバロフ(Rashad Alakbarov)による《ミニアチュール》である。アラバロフは、18世紀から19世紀のアゼルバイジャンの建築に見られるガラスや格子を用いた窓の装飾、シェベケをヒントにしている。光に照らされた鉄の骨組みが壁に投影されると、アラビアンナイトの一場面のようなイメージが浮かび上がる。

ソヴィエト崩壊から20年近く経過した2007年にアゼルバイジャンは初めてベネチアビエンナーレへの参加を果たし、2009年には近代美術館をオープンさせた。近年ヘイダル・アリエフ財団がアゼルバイジャンの現代美術を手厚く支援している。今回の展示も同財団がコミッショナーとなり、カルティエ財団やLVMHグループなどでアドバイザーの経験を持つフランスのエルベ・ミカエロフがキュレーターを務めた。ミカエロフは今回の展示に先立つ2011年「Fly to Baku:アゼルバイジャンの現代美術」展をオーガナイズし、ロンドン、パリ、モスクワ、ローマ、ベネチアでの展示を成功させた。この展覧会によりミカエロフはフランス文化省から芸術文化勲章を受賞した。

質の高さに保証され、エキゾチシズムと社会性、そして親しみやすさをも兼ね備えたアゼルバイジャンのアートは、一時の中国の現代美術のような勢いを感じさせる。支援者とキュレーターに恵まれたアゼルバイジャンの現代美術が、世界で活躍するスターアーティストを輩出する日も近いかもしれない。(K)

ベネチアビエンナーレ、アゼルバイジャンパヴィリオンについては
Azerbaijan pavilion at Biennale exhibition in Venice《Ornamentation》http://www.azerbaijanvenicebiennale.com/#

ベネチアビエンナーレの一環として、アゼルバイジャンの現代アートの展覧会も同時開催中《Love me,love me not: Contemporary art from Azerbaijan and its neighbors》http://loveme-lovemenot.com/index.php/about

【ロシア・アヴァンギャルド特集 第六弾】エスフィリ・シューブ / Эсфирь Шуб / Esfir Shub (1894 – 1959)

【ロシア・アヴァンギャルド特集 第六弾】エスフィリ・シューブ / Эсфирь Шуб / Esfir Shub (1894 – 1959)

【ロシア・アヴァンギャルド特集 第六弾】

エスフィリ・シューブ / Эсфирь Шуб / Esfir Shub (1894 – 1959)

渋いチョイスじゃないですか。近年では、フェミニズムやジェンダーの観点からも言及されることの多い、ソ連の映画産業の初期から制作に携わっていた女性映画監督。1917年まで彼女は、モスクワで文学の勉強をしていたが、1919年にはモスクワの高等女子学校を卒業し、1918-21年にかけて教育人民委員会の演劇局で働いていた。当時、その演劇局を率いていたフセヴォロド・メイエルホリドの個人秘書も務め、ヴラジーミル・マヤコフスキイらとも共に仕事をしていたようだ。

そんなシューブが映画の仕事をはじめたのは1922年。そのとき彼女は、ゴスキノで外国映画をソ連で上映するために編集=モンタージュし直す作業を行っていた。かのセルゲイ・エイゼンシテインに、モンタージュに関する技術的なてほどきをしたのは彼女だといわれており、1922年には、フリッツ・ラング『ドクトル・マブゼ』のソ連上映のためのフィルムを二人で編集している。

そんな彼女がどういう映画を作ったか。

彼女は、それまで撮りためられていたフィルム・アーカイブの素材のみを用いて、それらを再編集することで作品を作り上げるという映画創作法を編み出したのだ。現在では、ファウンド・フッテージという名称が与えられている、既存の映像を転用・流用する手法である。その手法を用いた彼女の代表的な作品に『ロマノフ王朝の崩壊』(1927)、『偉大なる道』(1927)、『ニコライ二世のロシアとレフ・トルストイ』(1928)がある。

たとえば、現在、ソフト化されていて比較的かんたんに観ることができる『ロマノフ王朝の崩壊』は、革命前に撮影された、当時の政治家、社会や農村、戦場の様子などの映像によって構成されている。シューブは、こうした方法によって「ドキュメンタリ映画」の一つの方法を「発明」しといえるだろう(もっとも、当時はまだいわゆる「ドキュメンタリ」という概念は成立していないと考えたほうがいいでしょうが)。

・・・コンセプトは面白いものの、た、退屈ではありますよね・・・。念のためにいっておくと、この映像は一部であって、作品の全体ではありません。

(ちなみに、日本ではソフト化されていない。クリモフ『ロマノフ王朝の最期』(1981)や、BBSかどこかのドキュメンタリ番組(『ロマノフ家の終焉』だったかな)といった類似タイトルのソフトがあるので注意。)

ところで、「ロシア・アヴァンギャルド」が好きな人は、たいがいジガ・ヴェルトフの映画が好きだし、当時のソ連の「ドキュメンタリ映画」という点でも、すぐさま思い浮かぶのは、むしろ彼の名であろう。

けれども、ヴェルトフは、実は1920年代半ばくらいからかつての仲間たちからも、その映画の在り方が批判されるようになっていく。それが表面化するのが、「ファクトの文学」を標榜するグループが論陣をはっていた『新レフ』誌において、映画特集が組まれたときだ(1927年11-12号)。ここでは、「ファクトの文学」ならぬ、映画におけるファクトあるいは「非劇映画」を巡ってオチのない喧々諤々の議論がかわされているのだが、その際、彼らがヴェルトフの映画を批判する一つの大きなポイントとして、美的すぎるという点があげられる。ここでいう美的とは「美しい」ということではなくて、ヴェルトフの映画に特徴的なスピード感のあるモンタージュ、ダイナミックなオーバラップ、非日常的な視点から撮影された映像等々、そうしたいわば形式的な要素が「美的」といわれると考えよう。

そして、この新レフの連中がヴェルトフに対置するかたちで賞賛したのが、このシューブの映画作りの方法であった。なぜか。

まず、ヴェルトフの映画と異なり、アーカイヴのフィルムを使って作られるシューブの映画は、撮影における恣意性がない。無論、その映像を残した無名の撮影者は、撮影者なりの意図があったのかもしれないが、少なくとも、その映像のみを編集して作品をつくるシューブにとっては、それら素材は、彼女自身の意図のもとに撮影されたものではない。彼女にとってそれら映像素材は、彼女の意図・作為を超えて存在している所与、あるいはデータベースといっていい。このようなシューブの方法論があらわれてきたこと自体に、ある種の映画・映像的なリアリティ圏の生成をみることも可能であろう。

このとき、すべては「編集の仕方」ということになる。シューブを支持する新レフの面々は、映像素材を「美的」に構築するヴェルトフに対して、シューブはイデオロギー的に「正しく」過去の映像素材をつなげていると主張する。「イデオロギー的に正しい」とはどういうことなのか、それを議論するのは別の問題だ。現代の視点から見ると、(とりわけテレビ放送におけるドキュメンタリ番組の影響で、といっていいかもしれないが)ここにこそ問題があるように思われるかもしれない(つまり編集の恣意性)。しかし、彼らはむしろ、「客観的」「公正」といったものなど存在せず、すべてはイデオロギー化されているという前提で思考していると考えるべきである(ドキュメンタリ映画とは、現在でもそうであろうと、個人的には思う)。そのとき、そのイデオロギー的な正しさを保証する一つの手立てとして、「個人(主義)」的な「主観」を排することがでてくる。

ところで、『新レフ』でこうした議論がおこったきっかけとなったイベントがちょっと面白い。1927年11月に、ロシア革命十周年を記念して、それをテーマとした4本の作品が上映され、競合したのだ。その4本とは、すでに触れたシューブの『偉大なる道』、ときどき日本でも上映されるフセヴォロド・プドフキン『聖ペテルブルグの最後』、日本でも人気のあるボリス・バルネットの『十月のモスクワ』、そして、エイゼンシテイン『十月』である(『十月』は、この11月には完成が間に合わず、上映は不完全なかたちであった)。それぞれがそれぞれのかたちで「革命」の「リアリティ」を付与しようとしており、この4本を比較することはとても面白い。

一方、ヴェルトフは、ゴスキノ幹部との確執もあり、このイベントには参加することなく、この時期には、ウクライナを活動拠点にしている。彼の地においてヴェルトフは、趣旨的には上に同じく革命十周年を記念する『11年目』(1928)、そしてあの怪物的な『カメラを持った男』(1929)を撮りあげることになる。

・・・と、ここで終わったほうがカッコいいかもしれないけれど、シューブについての投稿なのでもう一つだけ。

ヴェルトフの作品に『熱狂:ドンバス交響曲』(1930)というトーキーの作品がある。この作品でヴェルトフは、社会主義建設の様子と同時に、音の到来を言祝ぐかのごとく、音/ノイズ、音楽の洪水を、その映像のモンタージュと同じように、ダイナミックにサンプリングしている。

一方でシューブは、『コムサモールは電化支援団体』(1932)で初めて作品に音を導入し、あたかもヴェルトフの音の入れ方の向こうを張るかのように、映像ときわめて同期性の高い音/音楽の使い方をしている。冒頭部では、オーケストラをバックにおこなわれるテルミンの演奏が見られます。テルミンとソ連の電化政策とのつながりもよくわかりますな。

『熱狂:ドンバス交響曲』