ラジオチェマダン[02]:『子どもがほしい!』実演・面白さ編

セルゲイ・トレチヤコフ 著 伊藤愉 訳 
『子どもがほしい!』(白水Uブックス、2025年8月)
★翻訳刊行記念★

奈倉有里×伊藤愉

ピアノ:山﨑愛

(前編はこちらです:https://chemodan.jp/blog/20250905-2/

*実演・面白さ編*(後編)

チェマダン編集部がお送りするラジオチェマダン、今回は、翻訳が刊行されたばかりの、セルゲイ・トレチヤコフの戯曲『子どもがほしい!』について、チェマダン編集部員でこの本の翻訳者でもある伊藤愉と、同じく編集部員の奈倉有里がお話ししております。ここからの後半は「実演・面白さ編」として、実際に戯曲の一部を読み、登場人物や翻訳について語っていきます。

セルゲイ・トレチヤコフ@チタ(1922)年
https://www.poslednyadres.ru/pictures/TretyakovSM より)

甘い言葉がわからない!

奈倉:伊藤くんちょっと、ここんところ(ミルダと女友達ヴァルヴァラとの会話、p. 69)読んでみましょうか。

伊藤:あ、はい。

奈倉:じゃあ私がミルダ役で、伊藤くんがヴァルヴァラを演りますね。

――――――――――――――――――

伊藤(ヴァルヴァラ):はい、どうぞ。小言は長いの?

奈倉(ミルダ):道徳を説こうなんて思ってないよ。本当に特別な用事があって来たの。

伊藤(ヴァルヴァラ):用事?

奈倉(ミルダ):あなた、甘い言葉をたくさん知っているよね。

伊藤(ヴァルヴァラ):あんたに優しく語りかければいいの?

奈倉(ミルダ):愛している人と話すとき、あなたは相手に魅力的な言葉で話しかけるでしょ。すると彼はすごく優しくなる。そういう言葉を教えて。

伊藤(ヴァルヴァラ):頭、大丈夫? 本当に自分でわからないの?

奈倉(ミルダ):ロシア語にはちょっと弱いのよ、なにしろ私はラトヴィア人の農婦だから。甘い言葉はラトヴィア語でもあまり聞いたことがないし。私を口説いてくる人なんて、いままでいなかったし。

――――――――――――――――――

奈倉:はい。最後、照れ隠しみたいに言葉の話をしてるけど、本質的には言語じゃなく、「そういう状況を知らない」っていう、ミルダのこれまでの人生が垣間見える場面ですよね。

伊藤:そうだね。

奈倉:そういったミルダのちょっと未熟なところに、周りの声として、ものすごく原始的な優生思想というか、優生思想の原型のようなものが重なってくる――たとえばディスツィプリネルっていう登場人物が、小麦やキャベツの品種改良、犬や馬の血統種は、良質な品種を組み合わせたことの結果だ、だから人間もそうするべきだ、という発想になってくるわけですけど、ミルダは環境としてそういうものを聞きながら生きている。で、ミルダはこの当時としてとても真面目で、ある意味、社会的に「正しい」ことを求めている女性だから、この優生学的な思想が、いわゆる「頭がいい」とか「インテリ」とかではなく、「プロレタリアートの子供を産みたい」っていうところにつながる。そうでありながら、実際には冒頭のところでわりとロマンチックな感じで心を惹かれた相手(ヤコフ)にそれを提案する、という、「心で感じているものを、“正しい”とされる思想に結びつけるときの拙さ」みたいなものがある。それがまたひとつ面白いところだな、と思ったんですけど、伊藤くん、どうでしょうか。

第二版ではさらに徹底する主人公

伊藤:まさにほんとそうで、実はこの『子どもがほしい!』って、かなり書き換えられた第二版があって、今回翻訳したものはモスクワの共同住宅を舞台にしているんですが、第二版は場面が集団農場に移っていて、そこではミルダは農学者みたいな立場になっていて、非常に理知的で科学的で、感情があんまり介入しないようなキャラクターに書き換えられている。でもこっちの第一版では、まさにいま奈倉さんが言ってくれたように、人間味があるというか、ミルダ自身のなかで「こういうふうにしたい」があるんだけど、そこに人間的な感情が介入してきて、ミルダ自身もそれをうまく制御しきれないようなキャラクターとして描かれていて、むしろそのほうが演劇的には面白いかな、と個人的には思ったりもするんだけどね。

奈倉:そうですね。そうなると第二版はかなり違う戯曲、という感じがするんですが。

伊藤:そうだね。第二版はかなり違う。それこそ集団農場だから、農場の動物とかを使って優生学の議論が展開していくような、そういう作りになっているかな。

奈倉:なるほど。それは、戯曲としては第一版のほうが面白そうですね。ただ、優生学の議論を考えるなら第二版も参照したいところではありますけど。

伊藤:あと、優生学はこの時代(1920年代)よく議論されていて、でも1930年代になるとナチスの優生学的思想から優生学それ自体が言説として禁止されていくっていう流れがあるんだけども、ソ連の優生学の流れでいうと、ルイセンコ主義[1]とか、植物の獲得形質が遺伝する(環境因子が形質の変化を引き起こして、それが遺伝していく)っていう議論が1920年代には盛んにされていて、それがこの作品にも影響しているんだよね。さっき奈倉さんが言ってたけど、「頭がいい」とか「体力がある」とかならわかるし、ミルダが選ぶときもヤコフの性格とかを含めて選んでいるわけだけど、「プロレタリアートの精子がほしい」ってさ、ちょっと考えるとおかしくって、プロレタリアートって、性質じゃないじゃん。

奈倉:確かに、「遺伝」の要素として真っ先に浮かぶものではないですよね。

伊藤:そうそう、「労働者の子供がほしい」って、ちょっと意味がわからないっていうか、そこに遺伝がどうかかわってくるの、みたいな気がするんだけど、たとえばルイセンコ主義と重ね合わせると、プロレタリアートという立場で生きている人間はそれに適した形質っていうのを獲得していて、それが遺伝していくっていう解釈もできる。もちろんルイセンコ主義っていうのはそのあと完全に否定されてるから科学的には間違っているんだけど、そういった状況がミルダに反映されていると(記録のなかでそう語られているわけじゃないけど、当時の時代背景を考えると)そういうふうに読むこともできる。

奈倉:ミルダはじゃあ、労働者として生きていることによってヤコフの遺伝子になにかしらの変化が起きていると考えているというか、感じとっているっていう……?

伊藤:っていうほどにも戯曲のなかでは描かれていないんだけど、「プロレタリアートの精子がいい」ってのは、そうとしか読み解けない。で、ちょっとわかんないのはトレチヤコフがどれだけ本気でこれを書いていたのかっていうところなんだよね。

『新レフ』1928年第10号表紙
https://www.rusbibliophile.ru/Book/novyy-lef-ezhemesyachnyy-zhurn より)

著者の提唱した「ファクトの文学」とは?

奈倉:実際トレチヤコフはどう考えていたのか、伊藤くんとしてはなにか仮説はありますか。

伊藤:いや、どうなんだろうね。こういうのわからないよね。

奈倉:そうですね。

伊藤:ただ、トレチヤコフの特徴として1920年代に文学理論で活躍した人物でもあって、トレチヤコフやその周囲の人たちが提唱したことのひとつに「ファクトの文学」ってのがあって、現実をそのまま映しとるのがこれからの文学の新しい姿だ、あるべき姿だ、ってことを提唱した人でもあるんだよね。そういう意味では、写真とか映画にも関心があったし、無記名の新聞記事とか、ああいうものこそがこれからの文学のモデルになる、作家性を削いでいく、ただ目に映ったものだけを書き留めていく、みたいなことを提唱していたのが「ファクトの文学」で、その中心にいたのがトレチヤコフなわけだけど。トレチヤコフは、記述しているものに自分の思想をあんまり反映させないみたいなことがおそらく大事だったんだよね。それを戯曲でやろうとしている側面はきっとあるだろうな、とは思っていて、本気で考えていたかどうかっていうのはトレチヤコフにとってもしかしたらそんなに大事じゃなくて、そういう言説があった、そういう社会があった、っていうことがこの戯曲のなかで記述されていると。

奈倉:つまり、私たちはこの戯曲を読むと、1920年代のソ連を、かなりまざまざと垣間見ることができるんじゃないかっていう気がしますけど。

伊藤:そうだね。ただ、一方で、たとえばドキュメンタリー演劇ってのがいまはあって、当事者の言葉を使って演劇が作られる。その「事実」というものがあるという前提で舞台上で語られるわけなんだけど。でもその事実ってなんだろう?って。つまり演劇って、それそのものじゃないじゃん、必ずなにかを表象せざるをえないっていうか、必ずなにかを表現するっていう、表現の手法にならざるをえないから、トレチヤコフのこの戯曲も、「まざまざと見る」んだけども、それが1920年代そのものかどうかっていうのはやっぱり難しくて、「トレチヤコフが見たもの」か「まざまざと見ている気になる戯曲」か、みたいな言いかたが適切なのかな、と。

魅力的なキャラクターたち

奈倉:確かに、いわゆる「ドキュメンタリー的」な作品ではないな、というのは読んでいて思うわけなんですよね。たとえば、キャラクターなんかについてもそうです。これだけ当時としてリアルなテーマと内容を詰め込んでいるわりに、全体的にドタバタ劇っぽいところがあって、個性豊かな登場人物がたくさん出てくる。たとえば「葬儀屋」ですよね。ソ連時代になってはじまった「火葬」に対する言及とか、時代感を表すところはあるんだけれども、「春は最も幸せな季節です、死人がたくさん出る」から、みたいなセリフで、古き良き戯曲感を出しているところもあって、キャラクターとしてすごくいい味をだしていると思うんですけど、こういう、舞台を盛り上げてくれるキャラクターってこの戯曲にはけっこういますよね。

伊藤:いるね。まあほんとに、「楽しく読んでほしいな」っていう気持ちがいちばんなんだけども。こういう話ってくだらないかもしれないんだけど、誰がいちばん好き?(笑)

奈倉:やっぱ葬儀屋じゃないかな?(笑)

伊藤:あ、葬儀屋なんだ。葬儀屋いいよね。葬儀屋、最後もちゃんと出てくるけど。トレチヤコフって意外と、事実をそのまま映しとるとか言うけど、技を使うのが好きというか、けっこう前半部でいろいろネタを仕込んどいて、あとで回収してるところもあって。葬儀屋も後半回収されたりもしてるからけっこう面白いよね。僕はやっぱディスツィプリネルかな。

奈倉:どういうところがいいんですか?

伊藤:なんだろう、コミュニケーション不全の天才型、みたいな、自分の頭のなかでいろんなことが暴走していてそれをうまく他人に伝えられない。そのために周りと軋轢を起こしてしまう。

奈倉:なるほど、そういう人いそうですよね。

伊藤:いるよね。奈倉さんもそのタイプかもね(笑)

奈倉:なんでですか(笑)でも私は……、ミルダはなんだかんだいってすごく、魅力的な主人公だなと思いますよ。

伊藤:ありがとうございます。ってお礼言うのはおかしいか。

奈倉:特にその、さっき言ったような未熟さっていうのが非常に生き生きと描かれていて、そのあと彼女自身が下していく決断に、周りの環境が左右しているのが、戯曲を文字で読んでいてもわかる。そこで出てくる悪いやつ、管理人っていうのがいますけど、これ以降のソ連文学でも管理人っていうと定番の「曲者」っていう感じがありまして、だいたいいちばん嫌なやつなんですけど、ここでもその変なやつが出てくる。で、この管理人に迫られたところは、ミルダにとってかなり転換点というか、大事な場面だなというふうに思いました。ミルダの、さっき言ったような「未熟さのうえに直接理論が乗ってしまうようなところ」には、こういったことによる心の傷みたいなものも一緒に作用している。心理描写として描いたらけっこう複雑なはずのことを、戯曲で書けてしまっているのは、すごいなって思いました。

伊藤:なるほどね、確かにね。ここの人たちって、ディスツィプリネルもそうだしミルダもそうだし、ほかの人たちもそうなんだけど、理論とか理屈とかその当時の思想が反映してたり、いろいろ語ったりするんだけれども、比較的、身体的に生きてる人たちが描かれてる感じがするんだよね。身体と空間の反応、身体と他者の関係性とか、そういう身体性がこの戯曲のなかにはあるかなって。

『子どもがほしい!』舞台装置平面図(1928年)

語尾の翻訳秘話?!

伊藤:ここで奈倉さんに質問したいことがあって。いいですか?

奈倉:はい、どうぞ。

伊藤:奈倉さん戯曲って翻訳したことあったっけ?

奈倉:ない。

伊藤:戯曲ないか。まあ小説も一緒だと思うんだけど、やっかいだなって思うことがいくつかあって、(戯曲は)基本的にセリフじゃないですか。日本語の語尾が難しいなって、翻訳してて思うんですよ。「これは彼らの父親だ」っていうふうに僕が訳したところがあるんだけど、「だ」で終わらせるべきか、「だな」とすべきかどうか。その前の男性客のところも、「一本足だ、もう一本足りないぞ」とかも、「一本足だ、もう一本足りない」って、「ぞ」をつけなくたっていいわけじゃん。

奈倉:そうですね。

伊藤:こういうのってさ、どうすればいいんだろうね。

奈倉:まあ、なにか付け足したほうが、わかりやすくなることはあるよね。やりすぎるとわざとらしくなる?

伊藤:小説とかでもある?

奈倉:小説でも会話の部分ってのはあるよね。

伊藤:特に今回ちょっと気をつけたというか気にしたのはミルダの語尾。いわゆる日本語で女性言葉ってあるじゃん。「〜だわ」とか「〜よね」みたいな。そういうのをどうするかっていうのはすごく迷って。

奈倉:でも私は、ミルダの口調すごくいいなって思ったんですけど、完全に女言葉ではぜんぜんないのに、女の子が発話しているんだな、っていうことはわかる、でもちょっと意図的な女言葉は(ミルダ自身が)避けている、っていうような、そういうラインで翻訳してるのかなと思って、すごくその、男の服を着ているミルダ、という存在が思い浮かぶような気がしましたね。

伊藤:ほんとに嬉しい。ちなみに、ミルダのセリフを訳すときに、ときどき奈倉さんの話しかたを思いだしながら語尾を考えてた。

奈倉:ちょっと待ってよ(笑)思わぬところで私が出てきましたが。

伊藤:ちょうどいいんだよね、奈倉さんの喋りかたが。

奈倉:ちょっとよく、わかるようなわからないような、私がミルダに親近感を持ったのはもう「してやられた!」という感じがしますけど。

伊藤:どうなんだろうね。キャラクターとしては奈倉さんとミルダってだいぶ違うと思うけど、発話のテンションとかはちょっと、近いのかなって。

奈倉:いま初めて知った、衝撃の事実。

伊藤:ぜんぶじゃないけどね、もちろん。語尾どうしようかな、みたいなときに、奈倉さんこういうときなんて言ったかなって。

奈倉:それはまあ、光栄ですといえばいいのか(笑)

伊藤:どうなんだろうね。光栄なのかどうかもわかんないけど(笑)

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奈倉:ということで、2回にわたってお送りしました、セルゲイ・トレチャコフ作の戯曲『子どもがほしい!』のお話でした。この作品にはまだまだ、現代に通じるテーマ性もあるし、解釈をする楽しみのある本だと思うので、ぜひ、いろんな人の感想も聞きたいし、あとやっぱり個人的には実際に舞台でやってるところを見たいな、と思いました。どこかでやってくれるといいんですが。それでは今回はここで終わりです。またお会いしましょう。


[1] 生物学者トロフィム・ルイセンコ(1897-1976)の学説。1920年代以降のソ連で推奨された。

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