ニュー・インターナショナルかポスト・グローバルか?–ケイト・ファウルとボリス・グロイスとの対談

2014 年夏、モスクワの美術館「ガラージュ」にて「ニュー・インターナショナル」展が開催された。そのときに行われた批評家ボリス・グロイスと展覧会のキュレーターであるケイト・ファウルとの対談の翻訳をお届けします。

2014年7月30日

http://www.artguide.com/posts/640-the-new-international-or-post-global(2014/11/21 Accessed)

2014年8月1日現代美術館「ガラージュ」において、世界の現代美術の発展における重要な地点として1990年代を探求する展示企画「ニュー・インターナショナル」展が開会する。展示では二つの世代のアーティストたちの作品が展示される。第一世代の代表作家たちはすでに1990年代には名が知られており、第二世代はそのとき制作の道に進み始めたばかりだった。プロジェクトの参加者たちの中には、フェリックス・ゴンザレス=トレス、グループ「アーウィン」、シリン・ネシャッド、ゴーシュカ・マツガ、ダン・ヴォー、サンティアゴ・シエラがいる。展覧会オープン前夜、キュレーターのケイト・ファウルが哲学者・芸術理論家のボリス・グロイスとパブリック・トークの形式で会談し、1990年代の現象やアート界および美術館の役割に関して生じた転換、さらに「インターナショナル」と「新しさ」という言葉の意味の変化を議論した。ボリス・グロイス氏の好意により現代美術館「ガラージュ」はこの会談の一部を公開する。

ファウル:1989年パリにおいてジャン=ユベール・マルタンがキュレーションした「大地の魔術師たち」展が開催されました。この展覧会のアイディアのひとつは、西側から50人のアーティストを、それ以外の国々から50人のアーティストを紹介することでした。マルタンは「大地の魔術師たち」は文化外交の土台となるべきではないと述べ、無名のアーティストたちの創作と、政治と関係なく、様々な国の芸術家たちの多様な視点を示すような作品を示そうとしました。

グロイス:私は1985年に「大地の魔術師たち」の仕事をはじめたときにマルタンと会っていました。当時彼はベルンのクンストハレのディレクターで、そこではイリヤ・カバコフの西側での最初の個展が開催されることになっていました。しかしカバコフは国外に出ることを許可されなかったので、イリヤは私にそこに行ってジャン・ユベール=マルタンと協働するよう頼んだのです。マルタンの考えによれば、「大地の魔術師たち」において重要だったのは、様々な芸術傾向を統合し、より広いコンテクストにおいて前衛という発想を提示してそれを再考し、西欧モダニズムの美術と結びつかない様々な歴史、様々な国々、様々な芸術に対する態度が存在することを示すことがとても重要でした。モダニズムは純粋に西欧的でネオ・コロニアリズム的なプロジェクトとして提示されました。第三世界のアーティストや多くの知識人たちはこの時に怒りを感じました。なぜならばこの展覧会はモダニズムと前衛を純粋に西欧的な現象として提示したからです。私はこの展覧会に対して相当な怒りを覚えていた人々とも語り合いましたが、彼らはこの展覧会を西欧の支配的な状況を確立するものとして理解していました。これはマルタンが意図したことからまったくかけ離れていました。大きな議論になりましたが、今でさえ、この論争を今日の視点から見ても、論争に対して特定の立場をとることは難しいことです。

ファウル:それは1980年代末のことでしたが、1997年には最初のラウンド・テーブルとキュレーターたちの内輪のディスカッションが行われ、批評家のマイケル・ベンソンもそこに参加しました。ベンソンは後日自分が見聞きしたことについて報告を出版するためそこに招かれたのです。彼は、キュレーターたちの時代が始まり、あたかもすべてを自分の手中に収めたかのようなキュレーターは、展覧会を組織することによって独自の世界構造を提示し、何がグローバルでインターナショナルなのかを決定するようになったと書きました。そしてそのとき、冷戦後の時代、ポストコロニアルの時代、アーティストたちの作品をどのように提示するかに関して議論が行われました。あなたご自身の経験について少しお話いただきたいのですが。

グロイス:第一に、そのときキュレーターの役割は重要なもの、ヨーロッパにおいては主導的なものになったと言えます。アングロ・サクソン圏と比較すると、ヨーロッパではあらゆることがはるかに急速に進行していました。これに関しては、当時画一的なアートの歴史がさまざまな文化的マイノリティの側から批判されており、その時アイデンティティ・ポリティクスの最盛期に達したため、それが規範的なアートの歴史を解放したと考えるべきでしょう。

キュレーターの企画は劇の演出に似ています。なぜならば限られた間だけ実現されるからです。ハラルド・ゼーマンやそのほかの革新的なキュレーターたちは、最初から自分の企画を、始まりも終わりもある一時的なものとして提示していました。ここにキュレーションの企画のアーカイヴ化、つまりキュレーションの実践の自己歴史化の問題が生じたのです。私もまた、たとえば、最初に西側でかなりの量の社会主義リアリズムを紹介し(2003年フランクフルトのシルン美術館での「共産主義――夢の工場」展)、キュレーターとして活動していました。しかし最後には記録しか残らなかったのです。膨大な量のドキュメンテーション――それらがアーカイヴやインターネットに残されたのです。そのため私は自分のキュレーター活動に関して複雑な気分になりました。もっとも、多くの人々が訪れ、多くの議論が行われたので、その企画は成功だったとわかっていましたし、私にとってこれは本を書くことによって受けるものとは全く異なる重要な経験だったのですが。

ファウル:さらにお聞きしたいのですが、あなたは「インターナショナル」という言葉そのものについてどう考えていらっしゃいますか。ある面では、私にとってはその言葉は最初の意味を失って、「海外のもの」や「外国のもの」とほぼ同じことを意味するようになりました。しかし、過去にその言葉は全く違う意味を連想させました。たとえば、第一および第二インターナショナル――つまりEUの出現に先立って存在した国連および他の政治組織――といったものです。あなたがこの言葉をどう理解しているのか、興味があります。

グロイス:私にとって「インターナショナル」は、グローバリゼーション、つまりグローバル資本主義市場に対するオルタナティヴです。資本は世界規模で循環しますが、人々や文化は政治と同じく循環しません。現代の世界ではわれわれは資本の支配のもとに暮らしています。なぜならば経済的グローバリゼーションの段階と政治的グローバリゼーションの段階は均衡を欠いており、グローバルな金融の奔流がある一方で、各政府や機関はローカルな性質をもっているためにきわめて脆弱だからです。芸術の制度に関しても同様のことが言えます。これに関して、つまり政治的グローバリゼーションが存在しないことに関してはマルクスも書いています。彼はすでにこの資本のグローバル化の始まりを目撃しています。第一インターナショナルの組織は、資本のグローバル化に対して政治的なオルタナティヴを創り出す試みでした。ここ10年間のキュレーションのプロジェクトについて現在考察してみると、それらはこのようなインターナショナルなニッチを創り出していると言えます。なぜならば、アカデミーや美術館を含むあらゆる芸術機関はナショナルなもので、国際的なものではないからです。キュレーションのプロジェクトは、特定の世界秩序や世界体制に所属しない理想主義的な官僚制の在り方を生み出しました。キュレーターはそのような理想主義的官僚なのです。なぜならば、彼らは、彼らの空想の中だけに存在する特定の政治秩序に奉仕し、その空想を実現するため個々のプロジェクトを創り出しているのですから。たとえば、「ドクメンタ」やさまざまなビエンナーレのようなプロジェクトは、一定期間だけ「インターナショナルなもの」が存在するという印象を創り出しますが、しかしその次の瞬間には全ては消えてなくなるのです。このインターナショナリズムは、まるでフラッシュのような一時的な性質を持っているのです。

ファウル:雑誌『e-flux』に掲載された論文「流れの中に入る――アーカイヴと総合芸術の間の美術館」において、あなたは美術館界の変化について書いています。かつて美術館は時間を停止させたが、現在では一時的な上演活動を行い、時代を反映している、と。

グロイス:伝統的な美術館は力や、支配的な立場を失ってしまいましたが、それはすでに1970年代から1980年代に始まりました。当時私は制度批判に対して懐疑的な態度を取っていました。なぜならば、まもなく制度は崩壊すると考えていたからです。非常に長い間、美術館が芸術的趣味を決定すると考えられていましたが、今では誰もこれを信じていません。たとえば、アート・フェア「アート・バーゼル」やオークション・ハウスのクリスティーズはこのことを証明しています。なぜならば、美術館はこのような組織と競争することはできず、制度としての力は美術館からなくなってしまったからです。さらに、今日ではグーグルが美術館の機能を果たしており、この点においてグーグルはきわめて効果的に機能しているからです。たとえば、ニューヨーク近代美術館やメトロポリタン美術館は、おそらく、コレクションの7パーセントしか展示していません。しかしインターネット上ならすべてのコレクションを展示することができます。これは大きな変化です。なぜならばこのような状況のもと、美術館が展覧会、映画の上映、会合、読書会、シンポジウム、音楽のコンサートなどの活動を行うことでますます面白くなっているからです。美術館は社会活動の中心となり、観照の場ではなくなっています。美術館の活動で重要な事、それはブログです。たとえば、もし美術館に興味を持ったとすれば、常設展ではなくその活動を面白がるでしょう。そしてその美術館のサイトを訪問し、現在何が行われているか見ますよね。

ファウル:1998年にルクセンブルグで欧州ビエンナーレ「マニフェスタ2」が行われました。キュレーターのロバート・フレックは「コミュニズム後の芸術」という論文を書きました。そこで彼は20世紀末のアーティストたちによって新しいスタイルが創り出されていると語っています。たとえばイリヤ・カバコフや1990年代に有名になった世代はさまざまな場所で展示をしていますが、その時期に成長し、有名なアーティストたちから影響を受けた別の世代のアーティストたちもいます。そしてしばしば批評が芸術実践の中心となりました。1990年代にアーティストたちは彼らが興味をもっていることや批評に反応し、自ら互いに批評し合っています。たとえば、フェリックス・ゴンザレス=トレスや「アーウィン」グループは、まさに「私はインターナショナルな作品については語らない。私は新しいタイプの芸術を提示して、世界で起こっていることに視線を向けたい」と語っています。このような見方には賛成ですか?

グロイス:ある面では、アーティストが市場で仕事をするなら、例えばモード界といったある市場の領域で、きわめて様々な形で仕事をすることになるでしょう。アーティストたちがオブジェの制作を避け、長期ベースのプロジェクトやパフォーマンスを行おうとしているアート界に関していえば、ドキュメント化が生じます。あらゆるドキュメンテーションは似たり寄ったりなのです。ペルー出身のアーティストのドキュメンテーションやテキスト、写真を見て、その後マレーシアのアーティストの作品を見るとします。問題は異なっており、アーティストたちも様々ですが、ドキュメンテーションは似ているのです。もし若いアーティストを招けば、彼はあなたに企業理念やコマーシャルの手法に近いパワーポイントを見せるでしょう。ニューヨークのうちの大学で試験をしていてアーティストのスタジオに行くとします。そこには机、椅子が二つ、ノートブックパソコンがあってアーティストは自分の活動を見せます。自分の作品ではなく様々なプロジェクトに参加したことが書かれている活動履歴を見せるのです。このことは、作品の形式がどのくらい伝統的な手法からドキュメンテーションへと変わってしまったかを示しています。

ファウル:あなたは「新しさ」という言葉について多く書かれていらっしゃいますが、私はこれをわたしたちの展覧会「The New International」に使いました。なぜならば、1990年代に視覚芸術の新しい制度としてのニュー・インターナショナル・スタイルについての言説が生じたからです。当時この言葉は常に語られていましたし、全ては「新しさ」でした。あなたは「新しさ」について本(2014年イギリスの出版社Verso Booksから出版された『On the New』)を書かれました。私はその本をまだ読んでいませんが、あなたのエッセイ(ロシア語訳は2012に出版された論文集『詩学の政治』に収録)で同様のテーマについて知ることができます。この言葉についてどのようにお考えですか?「新しさ」はその可能性を失ったのでしょうか。

グロイス:あなたの展覧会のタイトルはいいと思います。「新しさ」に関しては、私はテクノロジーには新しいものは何もないと考えています。なぜならばテクノロジーは新しくなるのではなく、ただ完成されたり、改善されたりするだけだからです。このとき新しいものが古いものにとって代わります。新しいアートというのは逆で、古いアートにとって代わるのではなくアートのアーカイヴに収まるだけです。現在の飛行機とタトリンの作品である《レタトリン》を収めたアーカイヴがあるとします。前者が後者にとって代わることはありません。古いものと比較するパラダイムの中にそのコンセプトを設定する限りにおいて、新たなインターナショナリズムは新しくなりうるのです。たとえば、かつてマルクス、チトー、トロツキーの解釈に基づくインターナショナリズムがありましたが、現在では新しいインターナショナリズムが現れました。それは古いものにとって代わるのではなく、単にその歴史を継続させているだけなのです。

ファウル:私たちが「The New Internationl」展の仕事をしていた時、コミュニケーションのプロセスや情報交換をどのように実現させるか思考しました。たとえば、イリヤ・カバコフは人間というものをひとつの統一された存在とみなします。しかし他のアーティストたちは、逆になんらかの特定の状況や特定のコンテクストから出発しているものの、私たちに普遍的なものを感じさせようとしています…

グロイス:私は普遍主義はインターナショナリズムと同じではないと思います。ある面では普遍的になることを望めるでしょう。たとえば、マレーヴィチは普遍的なイメージ――つまり黒い方形――を生み出したいと考え、そのような道を選びました。なぜならば、どのイメージもその構造において黒い方形が存在しているからです。このようにして彼は普遍的なイメージを生み出しました。しかし、たとえばアレクサンドル・コジェーヴ(ロシア出身のフランスの哲学者、最も影響力を持った20世紀フランスの哲学者のひとり。死後膨大な写真アーカイヴを遺し、2012年にグロイスはそこから選んだ作品で展覧会を行った[『Chemodan』本誌にコジェーヴに関するグロイスの論文「賢人としての写真家」の翻訳を掲載している])もまた普遍的であろうとしましたが、しかしそれはむしろ写真家として、カメラになって世界を中立的な立場から眺め、写真機の中立的なまなざしを体現することによってでした。

ファウル:会場から質問を受けたいと思います。

質問者:グロイス氏には「複製ツーリズム時代の都市」という論文があります。そこであなたは自分のアイデンティティを十分明確に残している古い都市とは反対に、新しい都市は循環を始めると述べています。そしてわれわれは世界のあらゆる場所にそれぞれの都市の要素を見てとっています。実際、同じことが世界の文化的アイデンティティの点で生じています。たとえば料理やデザインなど、われわれはあらゆる場所で何らかの文化的特徴に出会います。これに関して月曜日のレクチャーではあなたは、グローバルな世界にいるアーティストたちや多くの人は自分の文化的アイデンティティを保ちたがるとおっしゃいました。つまり、ドイツに住むアメリカ人たちは自分のことをアメリカ人だと感じますが、これはあらゆる人に当てはまるというわけです。ナショナリティという枠組みで文化的現象を考えることはどの程度できるのでしょうか。それともこれは全く展望のないアプローチなのでしょうか。

グロイス:私が移住したとき、「あなたはロシア的なものやロシア人の典型的代表者ですね。私たちに話をしてくださいよ」と言われました。わたしは最初はこのような要望に対して不器用に反発していました。「とんでもない、私は典型的ではありませんし、そんなことわかりませんよ。もっといい人がいます。私はもうロシアを全く知らないんですから」。私は普遍主義により傾倒していて、私の話を聞いた人々は残念そうに私を見ました。しかしあるオランダの女性アーティストだけは(アムステルダムでの講演のときに)こう言ったんです。「あなたのことが分かったわ。あなたは、よくいる普遍的になりたがる典型的なロシア人よ」。こうして私の典型的な性質が明るみに出ました。これは私の教訓になりました。きみは、普遍的であれ、自分の好きなように自分を見せればいいんだよ。しかし他の人は君を自分の眼でながめ、君のことを、ロシア人に特有の普遍的になろうとしている人間として見るだろう。これに尽きるよ。つまり、他者の見方という単純な事実があるだけなのです。この見方はリューマチみたいなもので、抗う方法はありません。好きなだけ反発することはできても、どんな方法も役に立たないのです。

質問者:私は展覧会のテーマに興味を持ちました。私はお話全体から三つのテーゼを見つけました。第一に、キュレーションの実践は芸術活動のひとつのグローバルなかたちであるということ。第二にグローバリゼーションが起こりうるということ。第三にキュレーターはイリュージョンの世界にいるということです。

グロイス:これは私が言ったことのかなり正確な総括ですね。しかし問題は、この特徴づけが批判的なものとも賛同的なものとも受け取れることです。私は個人的には賛同的なものと受け取ります。というのも、アートそのものがイリュージョンの世界であり、これらのイリュージョンには多くの段階があるからです。アーティストも、キュレーターも、鑑賞者も自分のイリュージョンを創り出すからです。まとめると、多層のパイが出来上がるのです。眺めるのが現実だったとしても、それは単により面白みに欠けるイリュージョンの組み合わせなのです。


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