コースチャ:こんにちは、ダリヤ。僕は3,4年くらい前、はじめてあなたの作品を知りました。フォト・デパートメントの「若き写真」入賞者の展示を見た時です。そのとき僕は写真にあれこれと興味を持っていて、入賞者の名前にはあまり注意を払いませんでした。今「若き写真」のサイトを開いてみてわかったのですが、自分が目指す写真の美学の手本として二枚のあなたの写真が記憶に残っていたんです。
2011年にあなたの作品「イヴァンと月(ルナ)」が発表され、それに関する多くの記事や展示がありました。もちろん、この作品はもちろんとても印象的なものです。そこであなたは、はるか北にあるロシアの田舎の、二人のティーンエイジャーの不思議な世界を提示しました。彼らが街に惹かれないこと、そしてあなたが彼らの世界を探求する手段を見つけた方法は驚くべきものでした。彼らとあなたとの親交はすでに4年近くになるそうですね。あなたは現在でも彼らを撮影していますか?彼らとは今どうしていますか?
ダリヤ:私の作品に興味をもってくれてありがとう!私と、イヴァン、アンドレイは、私が最初にアルハンゲリスク州の彼らの村に行った2008年から交流しはじめました。国立サンクトペテルブルク大学のフォークロア研究室が毎夏ヴォログダ州とアルハンゲリスク州の様々な村で調査をおこなっているのです。私は、ふたたび研究グループのメンバーとして、その村に2009年に戻りました。そして2010年になって彼らと一緒に何かすることに決めました。この時までには私たちはすでに友達になっていました。それに加えて、私は自分が写真に何を求めているかを少しだけよく理解できるようになっていました。2011年の年末から2012年の1月初めにかけての新年休暇の間に、私は第二回目の撮影を行いました。今私たちはスカイプやSNSでも連絡を取りあっています。イヴァンはつい最近一年間の兵役に行き、5月19日に19歳になりました。アンドレイは今はセヴェロドヴィンスクの学校で学び、潜水艦を造る工場での実習を行う予定です。私はついおととい、彼とスカイプで話しました。
最初の撮影のとき、少年たちは街はあまり面白くないと言っていました。しかし時期が来て、大きな所に引っ越さなければならなくなり、二人とも学校で学ぶためセヴェルドヴィンスクの街に行きました。彼らの村には適切な教育機関がなく、学校を閉鎖するという話までありました。イヴァンはすでに兵役に行き、アンドレイももうすぐ兵役です。彼らの世界の見方が変わるのはごく当然のことです。私は、私たちの付き合いが続くと信じていますし、これからも彼らを撮影できるといいと思っています。私はオランダにいるので、実際にそれは今は少し難しいのですが、それでも私は早く会いたいと強く思っています。
コースチャ:あなたは写真理論を深く研究していますね。「イヴァンと月(ルナ)」は二つのジャンルの結合です。これについて話してもらえますか?
ダリヤ:はい。私は写真研究に興味があります。私は写真集のレビューや、他にオンラインの媒体にそのいくつかの記事も書いています。でも私は(もしあなたがジャンルの結合という言葉で芸術写真とドキュメンタリー写真の手法の融合のことを言っているとするならば)「イヴァンと月(ルナ)」の制作にかんして、ジャンルの接合について論じるつもりはありません。なぜならば、この議論は堂々巡りになるからです。(「イヴァンと月(ルナ)」には)演出の要素も、ドキュメンタリー作品に見られる要素――何かの風景、静物、あるいは肖像――もあります。そこでは少年たちは、私が彼らに頼んだとおりに行動するのではなく、自分自身のバージョンを考え出しているわけです。私は単なる移り変わりの瞬間、私が彼らに頼んだポーズではなく、どのようにして彼らがそのポーズを取り入れたのかを撮影しました。理論上、この制作は実際にさまざまな文脈で成り立ちえます。しかしこれはもはや、どのようにして制度や領域、マーケットが機能するのか、誰がどのようにして、何のために、写真をドキュメンタリーと芸術に分けたり、あるいは分けなかったりするのか、という別の問題です。どのケースをとってみても、写真はアートかドキュメンタリーかには分けられないという問題をもっとわかりやすいレベルで取り上げる写真家は多く存在しています。たとえば、アダム・ブルームバーグとオリヴァー・チャナリン(http://www.choppedliver.info/)や ジョアン・フォンクベルタ(http://www.fontcuberta.com/)らで、他にもたくさんいます。もしそのような目的を見出そうとするならば、実際にはどの作品にもドキュメンタリー性と芸術性に関する議論へと開いた窓を見つけることができます。
コースチャ:そうですね、現在多くの人々が、写真においてはすでにジャンルが消滅し、ドキュメンタリー写真はドキュメンタリーではなく、常に主観的であるということについて議論をしていますね…
あなたはオランダで勉強していたので、フォト・デパートメントが行った「オランダの写真の試み」を担当しました。これは、ロシアでも同様の試みが起こっているという点でとてもすごいことですね。僕はこのプロジェクトの修了生を見ていますが、このクラスの後、彼らの作品がよりアクチュアルでよく考えられたものになったのがわかりました。このクラスは、今ヨーロッパで一般的に教えられていることにどのくらい近いのですか?
ダリヤ:「オランダの写真の試み」はただ学ぶだけのプロジェクトではなく、そこには展覧会の企画が含まれます。企画のプロセスを見せながら、私たちはオランダのフォト・ブック「アンダーカバー」の展覧会を行う予定です。このプロジェクトの教育プログラムに関しては、私たちは年に3回オランダの作家たちと共にセミナーと講演を行います。ちょうど、6月21日から5日間のセミナーが行われます(アヌーク・クルソフhttp://www.anoukkruithof.nl/, アンドレア・ストゥルティンスhttp://www.andreastultiens.nl/)。これまでにも2012年10月にありましたし、後半は2013年の9月から10月にも展覧会と並行して(セミナーが)行われます。セミナーは5日間ですから、大学や修士課程での4年や2年の完全なプログラムと比較することはできません。しかし、私たちがセミナーを行ってもらった写真家の多くは、このような大学や修士課程のプログラムで教えています。たとえば、10月にペテルブルクに来たマルティネ・スティグ(http://www.martinestig.com/), はヘリット・リートフェルト・アカデミーと セント・ジュースト美術デザインアカデミーや、アカデミー・ミネルヴァ、王立美術アカデミーで教えています。ヨーロッパで通常行われている、(2日から5日の)短期間のセミナーではない「公式教育」と、われわれのセミナーが原則的に異特徴は、写真家自身が教師としてこれらのセミナーのプログラムを提案する点のみです
オーガナイザーの役割は、特定の時、場所、受講者に適した、最も興味深い写真家を選ぶことです。受講者にとっては何がより適切なのか写真家と一緒に議論することもできますが、最終的にプログラムは作家性が強く、その写真家に基づいたものになります。それでいて、「オランダ写真の実験」プロジェクトのセミナーがまったく異なる点は、これが非常に格安で、5日間でロシア人参加者は150ユーロ、外国人参加者は200ユーロだということです。比べてみても、通常同じようなセミナーは地域によっては1000ユーロです。アムステルダムのキュレーターであるジェーニャ・スヴェシンスカヤとフォト・デパートメントと一緒にプロジェクト全体を行っています。
コースチャ:「イヴァンと月(ルナ)」は、ロシアの様々な場所でフォークロアや伝説を研究する大きな大きなプロジェクト「No Tail, No Scale」の始まりです。プロジェクトに関する写真を、僕はインターネットで見つけることができたのですが、ひとつひとつの写真を芸術性の点でも気に入りました。でも僕にとってこれらの写真はロシアのフォークロアや伝説とはあまり関連しないものです。もちろん、これは主観的なことなのですが。現在、現代美術一般においては、根本的に出来事はコンセプトを超えるというトレンドがあるように思います。あなたの場合、写真がひとつひとつ何かについて語れるようになることが大切なのではないでしょうか?あなたは自分の作品をテキストなしで提示することができるでしょうか?それとも、テキストと特定の撮影順序によって組み立てられた物語のつながりこそが最も重要なのでしょうか?
ダリヤ:イヴァンと月(ルナ)」は作品「No Tail, No Scale」の始まりです。それはフォークロアとフィールドワークへの私の関心から生まれたという点に関してのみそうです。とはいえ、フォークロアと「イヴァンと月」に直接の関係はありません。どのようにしてアイディアが生まれたか、どのようにして私が主人公たちと親しくなったかという物語のレベルにおいてのみ、関係があります。「No Tail, No Scale」におけるフォークロアとの関係は、原理のようなものであり、コンセプトの一部であるということです。私は歴史的テキストのリアリティと現代の世界のリアリティを結び付けます。私はイラストレーションとして写真を撮影したいとは思いません、おそらく、だからあなたは私の写真がフォークロアや伝説と関係するという印象を持たないのでしょう。さらには、フォークロアの解釈、そして伝説の解釈でさえ、十分に議論されるべきです。一般に流通している視覚的なものを期待することは、何らかのクリシエにおちいるという点で危険です。
わたしにとっては、一つ一つのショットが何らかの点によって興味深いことが重要です。しかし同時に、この具体的なプロジェクトでは私はショットひとつひとつからタブローを創り出すことを目指してはいません。私が感じているように、このプロジェクトの私の写真は、ばらばらでは役に立ちません。不可能だからではなく、単にこれらの写真には異なる課題があるからで、私は、物語全体、伝説のテキストや他の素材から切り離して、それらを見ることはしません。私が語りたいことは、写真の中だけにあるのではないのです。こういう理由で、わたしはこれら写真が独立して一枚一枚あることに意味があるとは思いません。
コースチャ:この作品では、どのようにして人々と一緒に制作しているのですか?
ダリヤ:すでに撮影期間は終了し、今は素材が集まり、それらの素材によって私が次の段階での作業に取り掛かることが待たれています。私はさまざまな街に行って、撮影に同意してくれる人々を探しました。その後私たちは会って、すぐに撮影が行われることもあれば、時には、最初はただ会って私が何をしたいのか相談することだけを望む人たちもいました。私は通常、伝説に結びつく面白いポーズと構成をあらかじめ考えておきました。でも実際には、その場で新しい考えが浮かんだため、全てが実現したわけではありません。ある人の場合、撮影は4時間の長さにわたりました。私にとってこれは長時間で、4時間後には目は疲れ、ただただ疲労しました。またある人の場合、撮影は1時間でした。すべては、どれだけ心地よいか、どれだけ素早くすべてうまくいくか、どれだけコミュニケーションがうまくいくかといった、全般的に多くの要因によります。私がたまにやや奇妙なポーズをとることをお願いすると、人々はさまざまな反応をしました。ある人は喜び、ある人は拒否し、また別の人は自分のバージョンを提案しました。どのような身振りをどんな人がどのように受け入れるのかはとても面白かったです。たとえば、二人の青年に相手の眼を閉じてもらうという要求は、あまりに「ゲイ風」過ぎるとして受けとられ、聞き入れてもらえませんでしたが、これは私にとっては発見でした。人々が写真の方法と身体による言葉に関してどのような考えを持っているのか知るのは、本当に興味深いことでした。
コースチャ:ロシアの若い写真家たちの中で、あなたは誰に魅力を感じますか?
ダリヤ:キール・エサドフ(http://kesadov.me/)が好きです。彼にはきわめてユニークでおとぎ話のようです。ヤナ・ロマノヴァの最近の作品「シュヴィリシュヴィリ」(http://janaromanova.com/#topic=projects&story=shvilishvili&lang=eng)はとても明るく繊細です。イリーナ・ユリエヴァ(http://shadeless.net/irina/)の物語も好きです。正直に言って、非常に多くの若い写真家たちの作品が好奇心をそそり、楽しいです。