2013年11月19 日(火) から11月25日 (月)まで、ニコンサロンbis新宿にて後藤悠樹写真展「降りしきる雪、その一片が人を満たすとき あれから三年 -MOMEHT-」が開催される。樺太在留邦人の存在は知られているが、彼らやその子供たちがどのように生活しているのかは明らかになっていない。後藤は2006年からライフワークとしてサハリンの撮影を継続し、今回の展覧会では彼らの生活、人生、文化を写真と文章によってあざやかに浮かび上がらせる。
編集部:サハリンを撮影しようと思ったきっかけは?
後藤:ロシアに行こうと思ったのは写真の勉強を始めた19歳の時です。その時はどこかに行きたいという気持ちがすごく強かったんです。周りの写真をやっている友人たちはバックパックでアジアによく行っていましたから、自分が今更アジアに行っても同じストーリーをなぞるだけだなと思ったので、アジア以外の場所、できれば北国で日本と関係のある所を考えたんです。地図を広げた時に真っ白な場所があったんです[外務省は南樺太の帰属は最終的に未定であるという立場をとっている]。それがサハリンでした。日本に関係のある人たちが住んでいることは知っていたので、その人たちに会いに行こうと思いました。
編集部:何回くらい、どのくらいの期間サハリンに行かれたんですか?
後藤:2006年に初めてサハリンを訪れ、2009年は半年くらい滞在しました。そのときに基本的な人間関係が出来上がって、生活を肌で感じられるようになったんです。だから、今回は1か月しか滞在しなかったんですけれども、ある程度まとまったものができたんです。最初の2006年から数年間は観光ビザで行きましたが、いろいろな制限があって深く入り込むことができませんでした。このままじゃいけないと思い、他の方法を探し始めました。そうしているうちにある人とのつながりができてビジネスビザを取得することができ、そこからちゃんとした撮影が始まりました。
編集部:写真には特定の人物が登場しますが、この人たちはどのように撮影したのですか?
後藤:南サハリンには日本人が住んでいる町がたくさんあり、2009年にひととおりめぐりました。写真に映った人たちは撮影をお願いして許可して下った方々ですが、基本的にみんな写真に撮られるのは好きじゃないようで…。たとえば同い年の女の子リカは一回の撮影で、数枚撮らせてくれるかどうか、そんな感じでした。各地で人の家に泊まらせてもらって、その家の人たちとなるべく同じリズムで生活をして撮影しました。一つの家に滞在したのは長くて3日くらいです。
たとえばこの笑っている方について言えば、一般的にメディアでは「残留日本人のハツエさん」として取材をされるんですけれど、自分はそういう見方ではなくて、ふつうの人の目線に立って「ハツエさんは残留日本人でもある」という視点に変えようと思ったんです。とてもよくしてくれて、「バーバ・カーチャ(カーチャおばあちゃん)と思いなさい。」と言ってくれました。こちらも元気をもらいました。[本記事ではハツエさんの写真は掲載していません]
戦後サハリンにとどまる方はソヴィエト社会、さらにはそこの韓国社会の中で生きてきました[残留邦人の多くは朝鮮半島出身者と結婚した日本人女性]。だからみな日本語、韓国語、ロシア語の三か国語がしゃべれるし、名前も3つ持っているんです。他にそんな地域はないと思います。
あと、アイヌの血が入っている方もいるんです。このアルカーシャは日本、韓国、ロシア、アイヌすべての血が入っている象徴的な人です。そんな彼はロシア系の女性と結婚し、生まれた子どもは西洋風の顔立ちですが、その黒い瞳の色にアジアを感じました。南サハリンはとても国際的で、食事もキムチとボルシチと白米が全部おなじ食卓にのってたりするんです。
昔のアルバムもたくさん見せてもらいました。残留邦人の結婚式の写真ではチョゴリを着ていたりします。また、サハリン各地の墓地では日本語表記のお墓もたくさんあります。日本ではこういう歴史が人々の意識から完全に抜け落ちてしまっていることを不思議に思います。
編集部:後藤さんの写真を見ていると自分もそこでの生活に入っているような気がしてきます。
後藤:ホームページの写真にはキャプションがついていますが、今回の展覧会では彼らの生活がよりよくわかるように文章の量も増やしました。なかなか写真を撮らせてくれないことに一番苦労しました。怒られながら撮影した時もありました(笑)。でも、その苦労の跡を見せちゃいけないんですよ。こういう写真には親近感が大切だから。
編集部:何回かサハリンに行く中で、変化はありましたか?
後藤:サハリンを訪れるうちに、撮るものがだんだん明確になってきて、作品にまとめようという意識が生まれてきました。最初はなるべくいろいろなものを展示したいと思って、撮影した写真を削ることができなかったんです。撮影した写真を取捨選択するというのは、自分が彼女たちの存在を定義するようでできなかったんです。でも今回は自分が撮りたいと思った人を撮りました。やはり回を重ねるうちに人との関係が変わってきたことが大きいですね。最初は日本から来たお客さんでしかなかったので。
編集部:今回の展示ではどのような写真を選択したのですか?
後藤:生活が見えてくる写真を、「何とかさん」という個人を基にして選択しました。その時が来たら写真集も出版したいと思っています。サハリンは自分にとってのライフワークです。10代の最後から今に至るまで7年ほど継続しているので、自分の人生と完全に絡み合ってしまったんです。撮影し続けているうちに、もはや自分にとっては普通のテーマとは全く異なった距離でしかとらえられなくなりました。作品を追うごとに自分自身の変化もわかるんです。自分が変われば作品も変わるんです。一つの作品ではあるけれども、間接的には自分の人生の記録でもあります。
日本統治時代を経験された方はもう高齢なので、おそらくあと10年遅かったらこの計画は実現しなかったかもしれません。そういう意味でもとても貴重な作品だと思っています。
後藤悠樹「サハリン」http://goto-haruki.com/index.html
後藤悠樹写真展「降りしきる雪、その一片が人を満たすとき あれから三年 -MOMEHT-」http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2013/11_bis.htm#04
サハリンにたくましく生きておられる方々に敬意を抱きました。その人々の生きている明るく元気を出して今も暮らしていることをこの写真展で知りました
生きている証を 日本 韓国 ロシアの人達に知ってもらうことは大きな意義があります。勇気をもって記録した後藤悠樹さんにお礼を申します