ロシアとウクライナの境界線(翻訳記事)

演劇雑誌Teatral(チアトラル)に昨年6月に掲載された記事の翻訳をお届けします。

「ロシア語」とどのように接していくか、ある意味でウクライナ固有の問題と言えます。日本人には少し想像しづらいウクライナ語とロシア語の問題です。

こちらと合わせてお読みいただければ幸いです
モスクワに住む若い夫婦との雑談(後半)

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ロシアとウクライナの境界線
〔ウクライナの首都〕キエフの 劇作家マクシム・クロチキンとナタリヤ・ヴォロジビト ロシア語との相反する関係について

〜演劇雑誌Teatral(チアトラル)の翻訳記事 聞き手ジョン・フリードマン【註1】〜

 先日著名なアメリカ人劇作家のカリダド・スヴィチ(Caridad Svich)より、雑誌American Theatre のため演劇界における国境の横断に関する短い記事を寄稿するよう依頼された。その時、クリミアは既に「我々の」ものとなっており、初期の激しい衝突がウクライナ東部で起こっていた。私はロシア語で書きながらウクライナ人作家と名乗っている人物のことが頭に浮かんだ。そうした本当の意味で「国境の横断者」がいるのだ。私はそこでマクシム・クロチキンとナタリヤ・ヴォロジビトについて書くことを着想した。この二人の劇作家はともに戦争をテーマとした戯曲を書き、5月に上演されている。ヴォロジビトの『マイダン:抗議の声たち』がロンドンのロイヤル・コート劇場、クロチキンの『市議会のドロシーとロキシー』がアメリカ、テキサス州オースティンの«Breaking String»劇場で上演された。キューバ、アルゼンチン、スペイン、クロアチアの血を引く両親のもとに生まれたスヴィチは、私の意図を理解し、賛成してくれた。私は質問を用意し、好きなように応えて欲しいと言い添えて、それを彼らに送った。6月初旬に受け取った答えは、非常に印象的だった。私はこの答えが私たち全てを揺さぶるテーマに関する、極めて重要な考えだと分かった。ここには、既に80年代90年代の時点でウクライナがどのようにロシアから「ゆるやかに離れ」始めたかが記されているが、誰がそのことに気づいていただろう? 言語によって国境を横断した作家たちは気づいていた。読者全員もまたこの考察のなかでロシア・ウクライナの親交と敵対というテーマに目を向けることになる。

 

М. К.

劇作家 マクシム・クロチキン【註2】

−−あなたは自分のことをウクライナ人作家だと考えていますか?

−−ウクライナ人劇作家だと思います。

−−(ロシア/ウクライナの)文化、(ロシア/ウクライナの)言語、(ロシア/ウクライナの)伝統に対してどう考えているか教えてください。

−−家族とはロシア語で話します。でも、母親はウクライナ美術を研究しています。父親はウクライナの民俗学を研究しています。彼は、今でもいくつかの地方で行われているウクライナのカーニバル文化を研究しているのです。私は両親に非常に満足しています。本物のキエフ人として、彼らは必要な時は不自由なくウクライナ語を喋ります。私はウクライナの学校で学びました。たくさん本を読むようになると、読んだ本が二つの言語のうちのどちらで書かれていたかわからなくなることがしばしばありました。大人になると、意識してウクライナの生活をよりよく理解しようと試みました。

−−なぜロシア語で書くことに決めたのですか?

−−私は自分の文章を詩人で作家のロマン・クハルク〔ウクライナ人作家、1968-〕に見せていました。彼の意見を非常に評価していましたし、いまでもしています。彼は私のウクライナ語の文章にはある種のぎこちなさがあるように思えると言いました。これは正しかったのです。私には生の会話の経験が少なかったのです。私が親しんでいたのはウクライナの文章語であり、ウクライナの言葉のルールが急激に変わったのはちょうど90年代の初頭でした。ウクライナ語はロシア語的な表現から脱し、発展していきました。ある種の言語表現が急速に廃れ、社会の中で言語に関する議論が生じました。私の「ソヴィエト的」ウクライナ語は現実から離れていたのです。「追いつく」ことが必要でした。しかし、私は自分の言語学的能力の壁を自覚していました。自分を「言語の使い手」と感じていませんでした。

−−〔ロシア語で書くと〕決めたことを後悔したことはありますか?

−−ロシア語でも書くことは大変です。世界中のどんな言語であれ、書きたい戯曲を書くということは大変でしょう。しかし、手段としてロシア語を選んだことは、私にとって必然でした。というわけで、これは間違いではありませんでした。

−−ゴーゴリという前例がある一方で、シェフチェンコという前例もあります……【註3】。こうした「歴史」にあなたはどのように入っているでしょうか?

−−そのことを考えていないとは言えません。ですが、ある時から過去の作家たちの手段は私にとってどうでもよくなったのです。今日の現実は今日特有のものであり、あらゆる類似は表層的なものとなります。私にとって重要なのは自分の選択であり、自分で決めることです。私はウクライナの劇作家である、という。しかしロシア演劇における動向との繋がりも感じています。敬いつつ、先駆的なロシアの演劇作品と関係を持っています。ロシアの新しい戯曲の進歩的な役割は、私にとって確かに重要なのです。ウクライナにもアクチュアルな発言をする劇場が成長してきていることはとても嬉しいです。ウクライナ人作家による素晴らしい戯曲も出てきています。

−−ウクライナ語でも書きますか? 頻繁に書きますか? 何を書きますか? どのような条件で書いていますか?

−−試みてはいます。ウクライナに関するなにかしら重要なことはウクライナ語でのみ言うことができるので。もちろん、生きた話し言葉も記述しようとしています。より精通し、「文盲の領域」から脱することができたら嬉しいです。

−−最近の出来事はどのように、ロシア語作家としての自分への態度を変化させたでしょうか?

−−私が自動的に「ロシア人作家」として記される時、より病的に反応するようになりました。この基本的には名誉ある肩書きも、私の現実を正確には記していないのです。私は正確さを求めます。

−−この間に、ロシア語に対する態度はどのように変わりましたか?

−−ロシア語は素晴らしいものであり、言語に罪はありません。

−−どのような心理的な「傷」や「困難」がこの間に生じましたか? そうしたものとどのように折り合いをつけますか?

−−どのように折り合いをつけるか、は分からない。これは悪夢で地獄だ。僕の中で何かが壊れ、取り返しがつかなくなっています。

 

Н. В.

劇作家ナタリヤ・ヴォロジビト【註4】

−−あなたは自分のことをウクライナ人作家だと考えていますか?

−−ええ、私はウクライナ人作家です。私は、言語は「作家のナショナリティ」の主たる指標ではないと思っています。もし私が英語で書いても(書かないですけど、もちろん)、私はウクライナ人作家であることをやめる訳ではありません。ナボコフはロシア人であることを決してやめませんでした。ゴーゴリも同じように、ウクライナ人です。重要なのは、ルーツと自分のアイデンティティです。何語にせよ読みやすい言語で私の戯曲を読んだとしたら、私がある特殊な世界、つまりウクライナという世界のトランスレーターであることが分かるでしょう。

−−(ロシア/ウクライナの)文化、(ロシア/ウクライナの)言語、(ロシア/ウクライナの)伝統に対してどう考えているか教えてください。

−−私の母はウクライナ語圏の田舎出身です。ゴーゴリはその近隣で生まれました。父親はロシア語話者のウクライナ人です。しかし幼少期から私は祖父母のもとで育ちました。つまり、私の最初の言語はウクライナ語です。そのウクライナ語はウクライナ西部のようにきれいで文学的なものではありませんでしたが、いずれにしてもウクライナ語でした。1982年に私はキエフの小学校に入学します。その当時、キエフの小学校のおよそ80%がロシア系でした。あらゆる民族性を抑制する政策がとられていたのです。首都キエフでウクライナ語を話すのは恥ずかしいことでした。そのため、自宅では多くの人がウクライナ語を話す一方で、社会ではロシア語が使われていました。ウクライナ語は忘れられていき、発展せず、家で使う分には、完全なかたちでのウクライナ語を知っている必要がなかったのです。ロシア語が「より標準」の言語でした。自動的に、自然と、私は自分の初めての詩、短編小説、それから戯曲をロシア語で書き始めました。その当時私は言語については考えを持っていませんでした。無責任な時代でした。ソ連から分離し、ウクライナが独立したことを私は歓喜したにも関わらずです。その後私はモスクワのゴーリキー文学研究所で学ぶため、ロシアに移りました。

−−なぜロシア語で書くことに決めたのですか?

−−モスクワで私は作家として成長し始めました。もちろんロシア語のみです。10年が経ち、私はウクライナに戻りました。独立してから、ウクライナ語の小説家(散文家)や詩人たちの新しい力強い波が起こっていました。私は喜んで、彼らの作品を読みました。彼らはロシアでは知られていませんでしたが、ヨーロッパでは好んで訳されていました。そして彼らもまたロシアの方を向いてはいませんでした。全くと言っていいほど。私は結局のところ彼らの集まりには合流しませんでした。彼らにとって私は、異なる人間だったのです。

 私は親戚とはウクライナ語を話し、社会ではロシア語を使い、ロシア語での執筆を続けました。ある瞬間まで私にはウクライナ語で書く動機がなかったのです。しかしある時、演出家のヴラド・トロイツキー【註5】が私に短い劇作品をウクライナ語で書くよう依頼してきました。その時の喜びを覚えていますし、その仕事を喜んでやりました。その後、それをロシア語に訳しましたが、翻訳に際して全てが失われてしまったかのように感じました。

私の娘が言葉を覚え始めるとき、私は初めて言語について真剣に考えました。彼女と何語で話すか、ぼんやりとでも決める必要があったのです。私はウクライナ語を選びました。これは極めて自然なことでした。私は娘と一緒にウクライナ語の会話を学びました。正しく話すために。私たちはいまでも互いのロシア語的な表現を修正しあい、そのことを互いに感謝しています。これは私の人生において数少ない正しい選択の一つだったと思っています。母国語への回帰はなにか言い表し難い魔力を持っていました。自分のルーツへと近づいていくのです。何かしらの暗号を説くかのように、わかりませんけど。

 ロシア語話者たちの中(キエフにはたくさんのロシア語話者がいます)でウクライナ語を話していると、私たちは自分を共謀者のように感じます。この行為はしばしば人々に感動や尊敬を呼び起こすのです。私たちが手本を示しているかのように私には思えます。多くの人がこのことを望んでいるのに、それを決心できる人は多くはありません。

−−ウクライナ語でも書きますか? 頻繁に書きますか? 何を書きますか? どのような条件で書きますか?

−−書きます。この3年間で、私はウクライナ語で2本の長編戯曲を書きました。つまりすでに私をロシア語作家と呼ぶことはできないのです。この2本の戯曲はどちらもキエフの劇場に依頼されたものです。

現在私はジレンマを感じています。小説を書きたいのです。依頼されたものではなく。でも何語で書くべきかが分からない。どちらの言語も同じくらい親しみを感じています。もしロシア語で書けば、より多くの人に理解してもらえ、おそらく他言語への翻訳者も簡単に見つかるでしょう。しかしそうすると、なぜ私は娘とウクライナ語で話し、ウクライナに住みながら、ロシア語で書いているのかということが理解できないのです。これと関連して、奇妙な考えが頭に浮かびました。それぞれの章をそれぞれの言語で書くということです。私は、自分が選ぶ言語にその後のテキストが依拠するということも理解しています。言語というものはそれのみならず、詩風、文体、粗筋、主人公の在り様が関わっているのです。そして、どの言語がよりその物語に適しているか、ということを探ることはできません。全く同じ物語を別々の言語で書き始める人(翻訳ではなく、「書く」ということです)はいないのですから。

−−この間に、ロシア語に対する態度はどのように変わりましたか?

−−多くのウクライナ人の友人たちが反ロシアの雰囲気と結びついて基本的にウクライナ語だけ話すようになりました。苦渋、憤慨、また抗議といったことから私も同じようにしたいと思っています……。まさに今そうした瞬間が訪れたかのように強く感じるのです……。しかし、それから私は考えます。ああ、ちくしょう、ロシア語だって私の言語だ。どうしてそれを否定しなければならないのだろう? 私はロシア語を愛しているし、ロシア語で書いている。自分を非難しなければならないの? そんなことしない。いつか、対話の時が来る。ロシア語はその対話の為に必要なんだ、と。

オリジナル・ソース:http://www.teatral-online.ru/news/11827/

【註】

1,ジョン・フリードマン、アメリカ人演劇批評家、翻訳家、The Moscow Timesなど各媒体に多数寄稿

2, マクシム・アレクサンドロヴィチ・クロチキン、1970年2月7日キエフ生まれ、ウクライナ人劇作家、俳優、脚本家。1998年、ロシア『独立新聞』主催のアンチ・ブッカー賞戯曲部門の新人奨励賞を受賞。

3,ニコライ・ゴーゴリ(1809-1852)とタラス・シェフチェンコ(1814-1861)は同時代のウクライナ人作家、詩人。ゴーゴリは基本的にロシア語で作品を書き「ロシア文学」に名を残し、シェフチェンコはウクライナ語で作品を書き、ウクライナ語文学の始祖と評価される。

4, ナタリヤ・ヴォロジビト、キエフ生まれ。2000年にゴーリキー文学大学を卒業。2004年、ユリイカ文学賞(作家、事業家、経済学博士のアレクサンドル・ポチョムキンとポログ出版社が設立した文学賞)を受賞。

5, ヴラジスラフ・トロイツキー、1964年11月26日ウランウデ生まれ。キエフの劇場「現代芸術センターDakh」設立および芸術監督。音楽グループ「ダハブラハ(DakhBrakha)」メンバー。


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